――そわそわする。
落ち着きなんてどこかに置いてきた。何をしていても嫌な予感ばかりが胸を占めて苦しい。もしかして、と淡い期待をしては自分自身でそれを否定するの繰り返しだった。
フランディールはいてもたってもいられずに、足早に兄の部屋へ向かった。秋も暮れて、北国ハウゼンランドは長い冬を迎えている。肌を刺すような冷気は慣れ親しんだもので、こうして焦る心にわずかばかりの冷静さを取り戻させる。それでも、その冷たさはフランディールの心を落ち着かせることはできない。
「お兄様」
ノックをするだけして、返答も聞かずに扉を開ける。兄のセオルナードはその端整な顔立ちをわずかに歪めた。マナーが悪いと言いたいのだろう。しかしフランディールは、今そんなお説教を聞くつもりはなかった。
「姫」
兄の部屋には偶然ヒースもいた。騎士団の報告か何かでたまたま居合わせたのだろう。彼の存在に気づきながらも、フランディールはヒースに挨拶することもなくつかつかと部屋の中に入った。
「お兄様、キリルから何か連絡はあったかしら」
フランディールが真剣な表情で問う。セオルナードは己を見つめるフランディールの青い瞳を見つめ返し、静かに目を伏せた。やがて、ゆっくりと首を横に振った。
「……一か月前にきて以来ない」
「私もです。今までどんなにあちこちをふらふらと出歩いても、手紙だけはこまめにあったのに。もしかしたら、何かあったんじゃ」
フランディールは青ざめて口早に呟く。キリルが旅に出てから二か月少しが経っている。期間としては同じ程度留守にすることは多々あったが、その間、一週間に一度の割合で手紙が届いていた。それが、一か月ほど前から突然途絶えている。一週間待ったときは、あの男のことだ、すっかり忘れているのかもしれないと自分に言い聞かせた。二週間たって、なんらかの事故で手紙が届かないだけだろうと言い訳した。三週間経ち――悪い予想しかできなくなった。そして、今日で一か月目だ。
「姫、落ち着いてください。まだ何かあったわけではありませんから――」
「でも、こんなの絶対におかしいでしょう!」
珍しく冷静さに欠いたフランディールの姿に、ヒースはどうしてよいのかわからなくなる。年齢の割には、フランディールは立場をわきまえた、落ち着きのある少女だ。今すぐにでも城を飛び出してしまいそうなフランディールを、ヒースが押しとどめていたときだった。「失礼いたします!」と慌ただしく扉が開く。騎士の一人が、姿を見せた。
「殿下! ……姫もこちらにいらっしゃったのですね」
「どうした」
セオルナードは駆けつけた騎士を見て続きを促す。騎士は姿勢をただした。息を切らしながらも、はきはきとした声で報告する。
「は、先ほどバウアー公爵家、キリル・リオ・バウアー様がネイガス王国との国境沿いの谷に転落し怪我を負ったとの連絡がございました!」
一瞬、その場にいた三人は言葉を失う。ずっとフランディールの心を占めていた胸騒ぎの正体はこれだったのだ。フランディールは突然目の前が真っ暗になったような気がした。
「状態は」
「頭を強く打ち、一時は危険な状態だったそうですが、現在は意識もあるとのことです。最初に発見した近くの村人たちが治療してくださったそうで」
「……そうか」
ほっとセオルナードは息を吐き出すものの、フランディールは青ざめたまま、今にも倒れそうだった。騎士は陛下にも報告は済んでいます、だとか、本日のうちに公爵様が現地へ向かったようです、とか、様々なことを言っているが、まったく耳に入らない。
指先の震えが止まらないままだ。けれど、不思議と涙は出てこない。
「フラン」
兄の声に、フランディールはハッと顔を上げた。
「俺はすぐに迎えに行けない。おまえが明日伯母上と一緒に迎えに行ってこい。伯父上は既に発ったそうだ」
「……はい」
糸の切れた人形のようにこくりと頷いて、フランディールはふらふらと部屋を出る。ヒースが慌ててフランディールを支えて部屋まで送ることになった。もともと華奢な少女だが、今はより一層頼りない。簡単に手折れる花のようだった。
「護衛として、私も同行いたします」
「……そう、よろしくね」
「姫、大丈夫ですか?」
心配そうに問いかけてくるヒースに、「だいじょうぶ」とフランディールは上の空で答えた。そしてすぐに首を振り、胸にたまっていた息を吐き出す。――冷たい空気が心地いい。
「大丈夫よ」
今度は比較的しっかりとした声で、フランディールは答えた。
「できれば、ヴェルにも伝えておいてくれるかしら。そしてもし平気なら、ヴェルにも明日一緒に来てくれるといいのだけど」
「伝えてくるのは、かまいませんが」
なぜ? と問いたげなヒースに、フランディールはつい先ほどの報告を思い出す。
「ネイガスとの国境近くなのでしょう? 何かあったとき、ヴェルがいるほうがいいかと思って」
何もないほうがいいのだが、キリルが大怪我をしたというし、姫であるフランディールに加え公爵一家が揃うのだ。使える手は多くしたい。ネイガス王国の王子である彼は地理はフランディールよりも詳しいだろうし、彼の権力も欲しい。
「かしこまりました。姫は、早くお休みください」
「そうね、明日は早いし、移動で疲れるだろうから――」
「いえ、そうではなく。顔色が悪いので」
無骨な指先が、ほんの一瞬フランディールの頬を撫でた。
「……ありがとう、早めに休むわ」
そのぬくもりに胸は躍らない。フランディールの頭の中はまだうまく動かないまま、指先の震えは止まらない。唐突に声を上げて叫びたくなるような不安が渦巻いたままだ。
たぶんきっと、この氷を溶かせるのはたったひとりだ。