かつかつと自分が早足に歩く音が響いている。ぐっとこらえたままなので涙は流れていないが、決壊間近であることは本能で察していた。
キリルの性格であれば、堂々と他国に――しかも大帝国であるアヴィランテに行く機会に乗じて旅に出るのは当然だ。それでも、行かないでと、傍にいてとすがりついてしまいそうになる自分が怖い。
早く部屋に引きこもってしまおう。そうしてクッションに顔を押しつけてひっそりと泣こう。――この恋の終わりを。
そう、思っていたのに。
「フランっ!」
少し慌てたような声が誰のものかなんて、考えなくてもわかる。
声を聞いた瞬間に、堰は壊れた。ぽとりと涙があふれ出る。ついその声に反応して振り返ってから、フランディールはまっすぐに見つめてくるキリルと目があった。
「っ」
捕まるのが怖くて、フランディールは慌てて部屋に駆け込む。自分の部屋の傍まで来ていて良かった。
ばたん、と扉を閉め、扉に背を預けたままフランディールは座り込んだ。ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「フラン」
扉越しにフランディールを呼ぶキリルの声がして、ますます涙が堪えきれなくなった。視界が涙で揺れている。
「なんだよ、どうして逃げるんだよ」
途方にくれたようにキリルが小さく呟いた。
もう無理だ、とフランディールの頭の中では警告が鳴り続けている。涙も想いも溢れている。いくら蓋をしたところでもう意味がない。
これでは、好きだと言っているようなものだ。
キリルだって、もう気づいているに違いない。
「キリルの傍にいたいのに、傍にいるとつらい」
叶わないと自分に言い聞かせる恋は、疲弊していくばかりで癒してくれない。
「……好きなの」
それは、告げてはいけないと言い聞かせてきた言葉だった。
扉の向こうで、息を飲む気配がする。
呼吸さえも止まってしまいそうなほどの静寂のなかで、フランディールはただ膝を抱えて泣いていた。終わりだ、と冷静な自分が囁く。もう恋の時間は終わりだよ、フランディール、と。
「おまえ、小さい頃言っていたよな」
低い声が、扉の向こうから紡がれる。
「綺麗な花嫁さんになるんだって。みんなからおめでとうって言われる、花嫁さんになるんだって」
……言っただろうか、そんなこと。どれくらい昔のことかフランディールは思い出すことすらできない。けれどキリルは、大切な思い出を語るように、いとしさを滲ませて話した。
「俺は駄目だ、祝福される結婚にならない。おまえの願いを叶えてやれない。おまえは、誰よりも綺麗で、誰よりもしあわせな花嫁になるべきだよ」
誰よりも愛されて、これからも愛されるべきだよ、とキリルがとてもとてもいとおしそうに、囁く。
「俺は、それまでおまえのこと守るから」
キリルはひどい男だ。
こんなにも愛を滲ませた声で、こんなにも残酷なことを言うのだから。
するりとフランディールは立ち上がった。新たな涙は流れてこない。ふつふつとわき上がる感情は、そう――
怒りに似てる。
がちゃりと扉を開けると、キリルは悲しげな顔のまま立っていた。
「フラ――」
「そんなものいらない」
キリルの言葉を遮って、未だ濡れたままの瞳でフランディールはキリルと睨んだ。
「なんなのそれ。そんなものどうだっていい。誰からも祝福されなくたっていい! わたしはそんなものよりキリルがほしいの!」
噛みつくような勢いで、フランディールはキリルの胸ぐらを掴んだ。そのまま怒りにまかせて吠える。
「誰よりもしあわせになんて望むなら、だったらあんたのその腕一本でしあわせにしてみせなさいよ!!」
フランディールの声に、キリルも火をつけられたかのように睨み返した。
「惚れた女にしあわせになってほしいって思ってなにが悪いんだよ!」
惚れた、という単語にフランディールが硬直して、言葉を失う。え、と声にならない言葉を漏らして、呆然とキリルを見上げた。
「今更、俺を煽るなよ」
苦しげな言葉を耳にしたフランディールが、キリルの名を呟こうとして――言葉を飲み込まれた。青い瞳を見開いて、フランディールは目の前のキリルの顔を見つめている。
唇が軽く触れたと思うと、角度を変えて深みを増していく。呼吸もままならなくて、フランディールはキリルの胸を押すけれどもびくともしない。いつの間にかキリルの腕がフランディールを包み込んでいて、逃げることを許してくれない。
ようやく唇が離れたときには、フランディールはすっかり息があがっていて自力で立てなかった。そんなフランディールを支えながら、耳元で居リルは呟く。
「やっぱり俺、アヴィラに行くよ」
もう傍にはいられないと、告げられたような気がした。