金の姫と婚約者候補たち

第2章:失恋って苦しいものですか?(1)






 湖からやってくる夜風は、湿り気を帯びているが不快なものではない。この城での滞在も何事もなく数日が経ち、明日には兄のセオルナードや婚約者のカーネリアがやってくる。
 眠気がこないので、少し散歩でもと庭園にまで来たが、やはりひとりではつまらない。誰か話し相手になってもらうべきだったか、とフランディールはため息を吐き出す。しかしこの夜半、婚約者候補の誰かに付き合ってもらっては妙な噂になりそうだし、だからといって疲れている侍女たちを付き合わせるのも気が引けた。明日以降であれば、兄やカーネリアに付き合ってもらおうと、心のうちでひっそりと決める。
 ふわ、と風がフランディールの髪を揺らす。普段は金色のうつくしい髪が、月光のせいか、銀色に光って見えた。その不思議な髪色も、フランディールの魅力のひとつとして語られる。
「そろそろ戻ったほうがいいかしら」
 風もだいぶ冷たくなってきた。このまま風邪をひいたら迷惑をかけてしまうし、キリルあたりには馬鹿にされそうだ。
 さくり、と草を踏みしめたときだった。
「お待ちを、金の姫」
 ひやりと冷たい何かが、首筋に触れている。夜の闇そのもののような低い声が、フランディールの耳に届いた。
 反射的に身体が止まる。
「……何者ですか」
 冷静に問いかけながら、フランディールは内心で舌打ちした。迂闊だった。この間の賊の襲撃からだいぶ経っていたし、城の中なら安全だと信じきっていた。ここは王城とは違い、兵士の数も少ないのに。
「名乗ることはできません。しかし、姫を傷つけることはいたしませんので、ご安心を」
「ならばその短剣をどけなさい。私はこういう荒事に慣れていないから、びっくりして誤って自分で傷を付けてしまうかもしれないわ」
 フランディールはわざと声を震わせて、そう告げる。背後でしばし思案する気配があったが、首筋に触れる短剣が離れた。
 ゆっくりと振り返ってみると、そこにいたのはあの時と同じ覆面で顔を隠した男だ。同じ一味のものなのだろう。
「それで、どんな御用かしら?」
「――姫を、運命のもとへお連れいたします」
 首を傾げて問うフランディールに、男は低く答えた。運命? とフランディールは眉を顰める。
「このような、ふざけた遊びに時間を費やすことはありません。姫。姫には姫の、運命の相手というものがございます。陛下のお戯れで、その運命が歪められてはならない」
 男は縋るようにフランディールの細い腕を握る。痛い。逃げられないためか、それとも無意識か、男は強くフランディールの腕を握り締めていた。

「手を放しなさい」

 短く命じても、男はますます腕の力をこめるだけだ。なんだろうか、この男からは恐ろしいほどの執着を感じる。先日襲撃してきた男たちとは、どこか違う。
「姫はよろしいのですか、このままで。運命とは異なる道筋で」
 背筋にぞくりとした何かが這う。鳥肌が立った。
 怯えるなと自分に言い聞かせる。この場には他に誰もいない。助けを求めるにも、隙がない。ならば自分で状況を打破するしかないのだ。
「確かに、人の目からはおままごとのようにも見えるのでしょう。あなたの言う運命とやらがどんなものかは知らないけれど」
 知りたくもない。

「私の運命は、私が選びます。もう一度だけ、言って差し上げますわ。……この手を、放しなさい」

 普段のフランディールの声とはまるで違う、冷たく、低い声だった。男が一瞬だけ気圧されたのがわかる。その隙を、フランディールは見逃さなかった。
「誰かっ!」
 夜なので声の通りはいいはずだ。近くにいる兵士が気づいてくれることを祈りながら、声を張る。そして掴まれている腕を上に掲げ、捻った。こういうときは、剣の稽古よりも体術の稽古の方が役に立つ。
「姫!」
 すぐに駆けつけてきたのはヒースだった。どうして、と驚くフランディールを引き寄せ、広い背に庇う。覆面の男との距離ができ、フランディールはほっと息を吐いた。もう大丈夫だ、と無条件に思える。

「……ヒース」

 護ってなんて言ってないのに、こういうときに駆けつけてくれると、すごく嬉しい。危ない目に遭ってほしくないのに、怪我をしてほしくないのに、矛盾している。
 そしてすぐに兵士たちもやって来た。覆面の男も抵抗したものの、あっけなく捕縛される。兵士のひとりが覆面を剥ぎ取って、顔が露になった。
「……アーグレイ子爵?」
 フランディールがぽつりと名を呟くと、男の顔は蒼白になった。顔を合わせたことは数えるほどしかないが、間違いない。フランディールは一度会った人の顔と名前を忘れないのだ。子爵は二年ほど前に、家督を継いだばかりだったはず。
「……姫、お身体が冷えます。部屋へ戻りましょう」
「ええ……」
 ヒースがフランディールが怯えないように、とやさしく告げる。肩越しに盗み見た子爵は、ひどく小さく憐れだった。なぜこんなことをしたのだろう。捕まってしまったら、家はどうなるのか、わからないほど愚かでもないだろうに。
 狂わせたのは、自分なのだろうか。フランディールはそんなことを思いながら、冷たい夜風に目を閉じた。
「寒いですか?」
 肩を震わせたフランディールを見て、ヒースが問いかけてくる。
「そうね、すぐに戻るつもりだったから」
 予想外のことで外に長居したおかげで、身体はすっかり冷え切っている。夜風にあたったことだけが理由ではない。
「どうぞ」
 ヒースが上着を脱いで、フランディールの肩にかける。ぬくもりの残るそれに、どきりと心臓が鳴った。
「だ、大丈夫よ。もうすぐ部屋なんだし」
「そうですね。ですが寒いんでしょう?」
 ああ、そういえばこの人頑固なんだった、とフランディールは笑う。ここでいらないと断っても、頑なに押し付けられるのは目に見えていた。
「……ありがとう」
「いいえ」
 この頑なさも、ヒースのやさしさのひとつなのかもしれない、とフランディールは思う。冷えた身体が、じわりとあたたかくなっていく。
「部屋に戻ったら、もう一度湯浴みでもしてあたたまってください」
「そうね、そうするわ」
 寒さは和らいだけれども、このままでは身体も緊張していて、眠れないだろう。嫌なことをぐるぐると考えてしまいそうだ。
 フランディールの部屋の前まで着いて、ヒースに上着を返す。夏とはいえ、夜は冷える。薄いシャツだけでは寒そうだった。
「では、ありがとう。おやすみなさい」
 本当はもっと丁寧にお礼を言いたかったが、夜も遅い。助けてくれたことに対するお礼を言いそびれたままだから、何に対する「ありがとう」かわからない。
「おやすみなさい、よい夢を」
 低い声が、耳に心地いい。ふわりとフランディールが笑うと、ヒースは自然とフランディールの額に唇を落としていた。
「っ」
 途端にフランディールの身体は沸騰するように熱くなる。ヒースはそれに気づかないまま、では、と去ってしまった。たぶん彼としては、子どもを寝かしつけるときに送るキスと同じようなものだったのだろう。
 しかし、フランディールは顔を真っ赤にしてその場に座り込む。
 心臓に悪い。いや、これくらいのキスは、家族では当然だし、キリルとだってヴェルナーとだってしたことがあるだろう。挨拶だ。自分に言い聞かせてみるものの、心臓はどくどくと早鐘を打つ。
 ――落ちるってどういうことかしら。
 ついこの間、自分が口にした問い。
 答えは見つかった。ああ、落ちるとは実に的確な表現だ。確かに落ちた。一瞬にして。

 恋は、突然やってくる。













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