ヴァンデルングの花嫁




 彼にとって、私はただの妹にすぎなかった。



 砦の街ヴァンデルングに朝がやってくる。そのひとの朝は早く、日の出と共に目を覚まし兵士たちの訓練へと赴く。兵舎を使わずに家から通うのは、小さな私をひとりにさせないためで、今はその名残。私はもう幼い子どもではないから。
 窓から差し込む淡い光に目を細めて、私は朝食の準備をする。トーストと目玉焼き、そして熱いコーヒー。彼の朝食は決まっているので考える手間がないのは楽だ。私は自分用に紅茶を淹れ、トーストにはラズベリージャムを塗る。
「おはよう、レアン」
 黒髪を右手でかきあげながら起き出してきた青年は、用意された朝食をちらりと見て「おはよう」と返す。昨日はたくさんお酒を飲んで帰ってきたので、いつもよりも濃いコーヒーを淹れている。レアンはあまりお酒に強くない。今はきっとひどい頭痛に悩まされているに違いないのだ。
 この小さな一軒家には、私とレアンしかいない。以前はヴァンデルングから数キロ離れたところに大きな館があったのだけど、母様の死をきっかけに管理だけを任せて使っていない。ローシ家は陛下からの信頼も厚く、レアンも四年前までは陛下のお側に仕えていた。
「ごちそうさま」
 まだゆっくりと咀嚼している私の倍以上の早さで朝食を平らげて、レアンは立ち上がる。彼は今、このヴァンデルングの砦の責任者だ。
「あ、お昼あとでもっていくね」
「そういうのは婚約者にしてやれ」
「シュヴァルに持って行くついでだもの」
「はいはい」
 家を出る直前に、くしゃりと私の頭を撫でるのはレアンの癖だ。くすりと笑った私を見てレアンは気まずそうに自分の右手を見て、それから何も言わずに仏頂面で家を出る。最近はいつもそうだ。家を出る時だけじゃない。ふとした時に、レアンは私の頭を撫でるのだけど、それがすっかり染みついてしまっていることにレアン自身はここ最近になってようやく気づいたらしい。その癖を直さなければ、と思いながら出来ずにいる様子が少しおかしい。
 ぱたんと玄関の戸が閉まった途端に、家の中は静かになる。大きな手のひらの余韻を思い出して、小さな笑みをこぼす。




 彼は私の、兄のような人。
 途方もない迷子になっていた私を見つけ居場所を与えてくれた人。
 レアン・ローシ。陛下からの信頼も厚いローシ家の現当主様でもある。とはいえローシ家の直系はもはや彼しかいない。彼の父様は十年前に亡くなっているし、やさしい母様も六年前に病でこの世を去った。
 私が彼と出会ったのは、このヴァンデルングにある森のなかだった。気づけば私は見知らぬ場所にいて、どうしていいのかも分からずに途方に暮れていた。まだ十歳の私には解決策など思いつかず、次第に大きくなっていく不安に怯えていることしかできなかった。
 そんな私を見つけたのがレアンだった。その時彼は陛下とともにこのヴァンデルングの視察に来ていたのだ。

「おや、こんな小さな子が森のなかでどうしたんだい」

 馬に乗った男の人たちに怯えながら、私はどうにか自分の状況を説明した。気づけばここにいた、と。どうしていいのかもわからない。家がここからどれくらい遠いのかもわからない、と。
「人攫いか何かにあったのかなぁ。我が国も平和とは言えないからね。お嬢さん、お名前は?」
 気さくに話しかけてくれる人に、私は小さく答える。このときはこの方が国王陛下だなんて知らなかったのだ。
「ミ、ォ……です」
「うーん、ミーオ・タスカー、かな。とりあえず役人に調べさせよう。我が国の民ならばいいが、他国だと難しいな」
「陛下自らならさずとも……」
「んー。じゃあ君がやってくれるの?」
「はぁ」
 レアンはそのときちらりと私を見下ろした。彼の腰ほどの身長しかなかった私は、見放されてはいけないと彼にしがみついた。なぜかはわからない。やさしく話しかけていた陛下よりも、彼を選んだ。
「彼女も君がいいみたいだ。君にまかせよう。もしものときは君の家の養女にでもしてあげればいい。女の子ひとりくらい養えるだろう?」
「それは、もちろんですが……」
 しがみつく私を困ったように見下ろして、レアンはため息を吐き出す。迷惑だろうか、と怯えた私に気づいて、彼はくしゃりと私の頭を撫でた。大きくて不器用な手。今でもそのぬくもりを覚えている。

 そして私はローシ家に迎えられた。養女に、という話だったけれど、私はありがたい申し出を断り、ただの居候としてこの八年過ごしている。だから私はミーオ・ローシではなく、今もミーオ・タスカーのままなのだ。
 けれど私を受け入れてくれた母様もレアンも、家族として扱ってくれている。レアンにとって、私は年の離れた妹のようなものなのだと思う。






 砦の門番も、私の顔を見ると簡単に通してくれる。レアンは放っておくと食事をとらないので、ずっと前から私が昼食を運んで持ってくるのだ。そして空になるまでは帰らないので、必然的に彼は食事をとる。
「こんにちは。今日もごくろうさん」
「こんにちは、お疲れさまです」
 バスケットに昼食を詰め込んでやって来た私に、馴染みの門番は気軽に声をかける。
「今日のお目当てはどっちだい」
 問いかけに苦笑して、私は「どっちもよ」と答えた。この砦には、レアンともうひとり、私の大事な人がいる。
「ミーオ」
 門をくぐると、目当てのひとりが笑顔で手を振っていた。灰色の髪が日の光に照らされている。すらりと背の高い青年だ。
「シュヴァル」
 名前を呼ぶと、彼は人なつっこそうな笑みを浮かべる。私よりも五つも上だけど、笑っている時の顔は少年みたいだ。
「今日は僕の分もあるのかな」
「意地悪ね。この間忘れたからってずっと根にもっているの?」
「僕のかわいい婚約者さんは、僕の上司の心配ばかりしているからさ」
 そう言いながらシュヴァルは私の持っていたバスケットを奪い取ってしまう。中をのぞき込みながら「おいしそうだね」と笑った。シュヴァルは、私の未来の旦那様だ。つい三ヶ月前に求婚され、悩んだ末にそれを受けた。
「だってシュヴァルは放っておいてもちゃんと食事してくれるもの。レアンは気づくと丸一日食べずに仕事していたりするのよ?」
「あーあ。僕も少しくらい無茶をしたら心配してくれるのかなぁ」
「やめてちょうだい。レアンみたいな人が何人もいたら、なんて考えるだけで眩暈がするわ」
「それは同感だな。僕はきっと振り回されて目を回しているだろうね」
 お互いに顔を見合わせてくすくすと笑う。シュヴァルはバスケットを持っていない手を差し出したので、私はその手を握った。
「レアン? 入るよ」
 こんこん、とノックをしてから返事を待たずにあける。案の定彼は机似向かったままこちらをちらりとも見ない。気づいていないのだろう。
「レーアーン」
 私は遠慮なしに机のそばまで歩み寄り、レアンの顔の前で手のひらをひらひらと振った。はっとしてレアンが顔をあげる。初対面の人だと機嫌が悪いと思われそうな仏頂面。
「お昼よ。ごはんを持ってきたから食べよう?」
「ああ、そんな時間か」
 私の後ろでバスケットを持っているシュヴァルに気づくと、レアンは「なんだ一緒だったのか」と呟いた。
「それならふたりで食べればいいだろうに」
 婚約者同士、という言葉が暗に含まれていて、私は眉を顰める。シュヴァルはこの砦の騎士団を束ね、レアンはこの砦の総責任者である。立場としてはレアンの方が上かもしれないが、彼らは良き友人であった。だからこそ私はシュヴァルと出会ったし、私とシュヴァルが婚約したところで三人の関係性を、共に過ごす時間を壊したいとは思わない。
「目を離したらすぐに仕事ばかりする人がよく言うわ。さ、部屋に籠もってばかりじゃ身体に悪いわ。外で食べましょう?」
 レアンの右腕を持ち上げてそう急かすと、彼はしょうがないな、とでも言いたげに苦笑して立ち上がる。外へと向かいながら、シュヴァルがレアンに話しかけた。
「気を遣っているつもりですか? 今更でしょう」
「馬に蹴られて死にたくないんでね」
「聞いたミーオ? レアンが冗談を言ったよ」
「ほんと。今日は午後から雨かしら」
 空を見上げながら洗濯物干してきちゃった、と呟くとレアンは渋い顔をする。レアンがわたしとシュヴァルに口で勝とうなんて百年早い。
「まったくこのガキどもは……」
 ため息を吐きながら芝生に腰を下ろしたレアンの右隣に私は座る。はい、と作ってきたサンドウィッチを手渡す。
「ミーオは本当に料理上手になったよね」
 バスケットから自分で物色して食べ始めたシュヴァルにはコップに注いだお茶を渡した。
「サンドウィッチくらいで料理上手だなんて褒めてくれるんだから、シュヴァルはやさしいわね」
「昔の君はサンドウィッチを作るのもたいへんそうだったからね」
「褒めてくれていると思ったけど、違うのかしら?」
 じとりと睨みつけると、シュヴァルは素知らぬ顔で二個目に手を伸ばす。シュヴァルと話しながら食べている私と違い、レアンは無言でぱくぱくと平らげる。あっという間に彼の分はなくなってしまった。
「じゃあ、仕事に戻る」
「もう少しゆっくりしたらいいのに。全然休憩にならないわ」
 頬を膨らませて抗議すると、レアンは少し困ったような顔をして私の頭を撫でる。正直味わったかどうかも怪しい早さで食べられると、作った身としては悔しい。
「うまかった。いつもありがとな」
 淡い笑みを浮かべて、レアンは去っていく。その広い背中を見つめながら、卑怯だわ、と私は呟いた。
「普段あまり笑わない人に笑顔を見せられると、なんだか負けた気がする」
「わかるな、それ。レアンはそれを無自覚に使っているからずるいよね」
「そうなのよ。ずるいのよ。なんだかんだで私はいつもレアンに負けているんだもの」
 他人の目には私が手綱を握っているように見えるのだろう。随分と年下の女の子の言いなりになっているんですね、とレアンはよく言われているけれど、実際は違う。結局私はレアンの言うことを聞いてしまう。
「君も負けてないよ、ミーオ。あのレアンを扱えるのは君だけだろうね」
「そんなことも言っていられないでしょう。結婚したら、私はあの家を出なくちゃ、いけないんだし……」
 口に出してからしまった、と思う。出なくちゃ、なんて。まるであの家を出るのが、結婚するのが嫌みたいな響きだ。間違っても婚約者の前で言うセリフじゃない。
 思わず口元を手で覆った私を見て、シュヴァルは嫌な顔ひとつせずにこりと笑う。
「さて、僕もそろそろ行くよ」
 シュヴァルは何も聞かなかったかのように立ち上がり、そして屈んで私の頬にキスを贈る。
「あいしてるよ、ミーオ」
 甘く囁かれる言葉に、私は複雑な思いで頬にキスを返す。
「私も大好きよ、シュヴァル」
 私がこう告げると、彼はいつも少し寂しげに微笑む。そして今日、今まで何も言わなかったシュヴァルは口を開いた。
「君は、大好きとは言ってくれるけど、あいしてるとは言わないね」
 どきりとした。
 唇が震え、何かを紡ぐ前にシュヴァルは悲しげな笑みを残して、そのまま職務へと戻っていく。


 ひとりきりになった私は、空を仰いだ。
 ああ、知っていたのか。シュヴァルは。
「嘘じゃないわ。大好きよ……」
 世界で二番目に、大好きよ。
 目を閉じて思い浮かべるのは、いつもひとり。黒い髪。灰色のやさしい目。私の頭を撫でる右手。私に居場所を、与えてくれたひと。一番はずっと変わらない。
 けれどこれは叶わない恋だった。彼にとって私は妹のようなものでしかなく、永遠に幼い子どものままなのだ。それでも構わないと思っていた。妹としてでも、そばにいられるのなら、それでいいと。
 それすら無理だと思わされたのは、半年前のことになる。





 今年で三十一歳になるレアンには、私の知る限りで恋人や婚約者がいたことがない。かつて陛下の護衛として名を知られていた頃は、多くの縁談の話もあっただろう。しかし四年前、彼が致命的な怪我を負い、左腕を上手く動かせなくなってからはぱたりと止んだようだった。陛下に近しい者だったからこその縁談であり、王都を離れた今となってはすり寄ってくる者もいなくなった。
 だから私も安心して、いや、油断していたのかもしれない。レアンはこのまま独り身なのでは、と。
 その予想を裏切ったのが半年前。彼のもとにひとつの縁談話がやってきた。結果としては白紙となったけれど、私の心はざわついていた。レアンは、いつか花嫁を迎えるのだろうか。私は、そのひととレアンの三人で、生きていくのだろうか。それが、許されるのだろうか。
 そうして悩んで数ヶ月、今度は私が、シュヴァルから求婚された。寝耳に水だ。シュヴァルは名家の一人息子で、どこの出身かも分からない娘を妻にするような立場ではない。けれど彼は本気だった。本気で、私に妻になってほしいと言ってくれた。

「シュヴァルに求婚されたって?」

 夕食のあと、黙り込んでいる私に、珍しくレアンから話しかけてきた。
「……知っていたの?」
「本人から聞いた。そもそも、求婚していいかどうかという断りもあったしな」
 そうだったのか、と私はぼんやりとレアンの言葉を聞いていた。
「他の男ならあれだが、シュヴァルなら安心しておまえを任せられるな。悪いやつじゃないのは、おまえもわかっているだろう?」
「それは、もちろん」
「身分が気になるというのなら、うちの養子になってもいい。まぁそうでなくとも俺が後継人になるつもりだから、そう心配するほどのことじゃない」
 どんどんと心が冷えていくようだった。
 知っていた。わかっていた。
 レアンにとって、私は「妹」なのだと。恋愛対象になるような、そんな存在ではないのだと。
「できれば早くに返事をしてやれ。気になって仕事にも身が入らないようだから」
 それは、シュヴァルの友人として、私の兄としての言葉だったのだろう。けれどなんと残酷な言葉だろうか。私は泣きたくなるような気持ちになりながら、ひとりで考えたいと部屋に籠もった。
 扉を閉めた途端に、ぽたりぽたりと静かに涙が落ちた。声が漏れないように唇を噛みしめながら、私は枕に顔を押しつけた。
 別にレアンの恋人になりたかったわけじゃない。ただ一緒にいたかっただけだ。誰よりも大好きな人から、他の人との結婚を勧められるとはこんなに苦しいものだったのか。いつかこういうこともあるだろうと覚悟はしていたけれど、想像以上に痛い。
 一晩中泣いて、夜明けと共に答えを決めた。


「……いいの?」
 シュヴァルは淡く微笑んで、再度私に問うてきた。今思えば彼は、この時から、私に求婚してくれた時から、知っていたのかもしれない。私の一番が自分ではないと。
「むしろそれは、私のセリフ。本当に私でいいの?」
 ローシ家のもとで暮らしているとはいえ、私はローシ家の人間じゃないし、ましてどこの生まれかもわからない。レアンや陛下に助けてもらった時に、たくさん調べたそうだけど、この国の生まれではないようだ、ということしか分からなかったのだ。幼い私には地図を見せられても自分の生まれた場所がどこかなんてわからなかった。
「君がいい。そうでなきゃ求婚なんてしないよ」
 まっすぐな言葉に、胸を占めていた寂しさもやわらいでいく。ああ、このひとなら、きっとしあわせになれる。そう確信できた。

「大好きよ、シュヴァル」





 時は止まらない。
 そして私も、流れを止めようとはしなかった。結婚の準備は着実に進んでいくし、私も忙しい。レアンは私の頭を撫でなくなってきた。ふと持ち上げた腕を、誤魔化すように動かしてそのままおろす、ということが何度かあったけれど、今ではそれすらない。
 シュヴァルの家で、ドレスの最後の調整をすることになっていた。以前住んでいたローシ家の館も大きかったけれど、オネット家も同じように広く、そして調度品は見るからに高そうだった。シュヴァルは苦笑しながら「父が成金なんだよ」と言っていたけど、真新しいものがお好きなのだろう。ただ私は少し苦手だけど。
 真白なドレスは、わずかに調整するだけで済んだ。
「似合うね、ミーオ」
 突然聞こえた声に、私はびっくりして振り返る。満足げな顔でシュヴァルが立っていたのだ。
「シュヴァル! お仕事は?」
「今日は午後から非番だよ。よかった、すごく似合っているよ」
「あ、ありがとう」
 じっくりと見つめられると恥ずかしい。つい俯いてしまうと、シュヴァルが私の頬を撫でる。壊れ物に触れるかのように、やさしい。
「シュヴァル?」
「ねぇミーオ。本当に、これでいい? 当日になったら、もう後戻りできないよ」
 どくんと心臓が鳴る。
 どうして、そんなこと聞いてくるの。そう問おうとしても、唇が凍りついたように動いてくれない。

「本当に、僕と結婚していいの?」

 シュヴァルから目が離せなかった。今まで聞かずにいてくれたのに、今まで暴かずにいてくれたのに、どうしてこんな時になって。
「僕は君をあいしているけど、君は違う。僕はこのまま君をしあわせにしてあげたい。しあわせにしたい。けど、君は、本当に僕の元でしあわせになれる?」
 しあわせになるわと、すぐには即答できなかった。どうしてシュヴァルは私の心を乱すようなことを言うのだろうと、そんな疑問ばかりが渦巻いている。私がここで嫌だと言えば、なかったことにしてくれるとでも言うのだろうか? もう式は間近なのに?
「シュヴァ……」

「ミーオ!」

 困ります、やめてください、という制止の声を振り切って、私の名を呼ぶ声と共に扉が乱暴に開かれる。そこには息を切らしたレアンがいた。そのうしろから慌てた様子でオネット家の使用人たちがやってくる。
「レ、レアン! どうしたのいったい」
 問いかける私を見てレアンは一瞬だけ驚いたように目を丸くし、そしてすぐにつかつかと歩み寄ってくる。いくら親しい関係であっても、こんな訪問があっていいはずがない。
 しかしレアンはシュヴァルをじろりと睨むと、右手で私の腕を引く。レアンの胸に抱き寄せられて、顔が熱くなった。
「来るのが遅いよ、まったく」
 シュヴァルは呆れた顔でそう呟いた。
「……帰るぞ」
「え、ちょっと待って、こんな格好で」
 私を迎えにきただけにしては様子がおかしい。戸惑っていると、レアンは有無を言わさず私を抱き上げた。右腕だけで軽々と抱き上げられたことはもちろん、こんなこと、小さな頃だってしてもらった覚えはない。
「ちょ、ちょっと! どうしたのレアン! シュヴァルも……!」
 レアンの肩越しにシュヴァルを見ると、彼は少し寂しそうに微笑んで手を振っている。
「あいしてるよ、ミーオ」
 やさしいその声は、まるで別れを告げているようだった。レアンの肩がぴくりと反応している。




 ウェデングドレスを着たままの私を抱き上げているのでは目立つからだろうか、人通りの少ない道を通り、レアンは家へと向かう。下ろして、という私の願いは無言で拒否された。どうやら機嫌が悪いらしい、ということだけは分かる。
「レアン?」
 名前を呼んでも、黙り込んだまま。
 今の私たち、まるで花嫁と誘拐犯みたいだと思うの。レアンの右腕はしっかりを私を抱き上げているし、私もレアンの首に抱きついている。誘拐犯というよりはむしろーー花嫁を奪還した恋人みたいだわ、なんていうのは私の空想だ。
「レアン?」
 もう一度呼ぶと、レアンが立ち止まった。遠回りしている帰り道。すぐ向こうは林になっているから、木々の木漏れ日がきらきらとしている。するりと慎重に私を地面に下ろすと、レアンは静かに私を見下ろした。見上げたレアンの顔は、なんだか情けない顔をしている。
「……レアン?」
「あいつには、都に愛人がいるという噂を聞いた。あいつも否定しなかった。それでもいいというなら、今からでも戻るといい」
 あいつというのはシュヴァルのことだろうか。そんな噂、私は聞いたことがないけれど。
「少し、あたまに血が上った。あいつならおまえを任せられると思ったし、おまえをしあわせにしてくれるだろうと。噂の真偽がどうであれ、決めるのはおまえなのにな」
 じわり、と胸が熱くなる。心配してくれたということだろうか。私を連れ戻しにくるくらいに、怒ってくれたということだろうか。でもそれは、兄として? それとも
「どうして、ここまでしてくれるの」
 家族のようだった。兄のようだった。けれどそれはどれも仮初だ。家族ではないし、兄ではない。
 問うと、レアンはまた困ったような泣きたいような、そんな情けない表情になる。
「しあわせになってくれないと困る」
「どうして」
「じゃないと、吹っ切れないだろう」
 なにを、と言おうとした唇が震える。これは夢じゃないか。私が望んだ、都合のいい夢では。
「大切にしてきたおまえを手放すのに、しあわせになってくれなきゃ諦めもつかんだろ」
「なにを、諦めるの」
 声が震えた。
 心の片隅では、彼の言うことを理解している。ここまで言われて分からないはずがない。けれど信じ難くて、問わずにはいられなかった。
 レアンは口を開き、そして何も言わずにまた閉じる。困ったように微笑んで、私の頭を撫でた。
 ああ、もうダメだ。

「すきよ」

 レアンの頬に手を伸ばし、ゆっくりと撫でながら告げる。ああ、でも違う。好きじゃ足りない。
「ごめんなさい、好きなの、大好きなの、あいしているの。世界でいちばん、あなたが好きなの」
 兄でいようとしてくれたのに。私も、妹であろうとしたのに、止められなかった。嬉しいのか悲しいのか、よく分からないけれど涙が溢れてくる。泣き笑いでレアンにまた「あいしてる」と告げると、ぐいっと引き寄せられた。レアンの腕に包まれて、胸に頬を寄せる。
「……馬鹿だな、おまえは」
 苦笑混じりの声が聞こえる。しかしその声には、わかりにくいけれど確かに喜びが滲んでいた。
「そうよ、馬鹿なの」
 くすりと笑みをこぼし、レアンの背に腕を回す。
「でも馬鹿でいいわ。あなたが好きよ、レアン」
 きっぱりと言い切ると、レアンは負けた、と私の耳元で囁いた。低い声が、甘い響きを持っていることにどきどきする。

「あいしているよ、ミーオ」


 もう嘘はつけない、と彼は降伏する。
 私は笑みをこぼして、彼の唇にキスを贈った。




 彼は私の、兄のような人だった。

 今は私の、未来の旦那様。




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