さよならかみさま。


 蜩の声が響く逢魔が時の森を走る、走る。
 慣れない下駄がからころと鳴りながら、砂利道を蹴った。
 赤く染まる空に、遠くから聞こえる祭囃子の音が響いている。

「セン!」

 ちょっと背伸びした紺地に朝顔の花の描かれた浴衣に、結い上げた髪。いつもの幼いセーラー服とは違う。
 村のはずれ、鎮守の森の緑が夕日に照らされる中、背の高い黒髪の青年はわたしを見つけて、目を細めた。赤い双眸がやわらかな光を帯びる。

「千夏子」

 今日は村の神社の夏祭り。
 そして同時に、この鎮守の森ではあやかしの祭りが開かれている。







 どうやらわたしの目には、人とは違う世界が見えているらしい。
 ふわりふわりと漂う狐火。くすりくすりと笑う小鬼。ぼんやりとした黒い影。それらは人に害のあるような存在ではないらしいというのは、おばあちゃんから教わった。
「ちかちゃんには、神さまが見えているんだねぇ」
「かみさま?」
「そうだよ、日本にはね、八百万の神さまいらっしゃるんだ。そこの石にも、その花にも、神さまが宿っているんだよ」
 だからちかちゃんが見えているものも、怖いものじゃあないんだよ。おばあちゃんはしわしわの手でわたしの頭を撫でてそう言った。でもね、と少し声を潜めて、
「それは、おばあちゃんとちかちゃんだけの秘密だよ」
 しぃ、と人差し指をたてておばあちゃんは笑う。
 うん、とわたしも笑った。
 物心つく前のわたしは、とても情緒不安定な子であったらしい。両親は共働きで、この田舎から車で一時間近くかかる町で働いている。幼い頃からわたしを育ててくれたのはおばあちゃんで、この不思議な世界とのつきあいかたを教えてくれたのもおばあちゃんだった。
 わたしの目にうつるそれらは、神さまであり、あやかしであり、人にとっては化け物であった。
 時折何もないところをじぃっと見つめているわたしに、へんなの、と幼馴染はいつも不思議そうだった。そう、わたしの目にうつる世界は不思議なのだ。

 センと出会ったのは、おばあちゃんと鎮守の森の傍を歩いていたときだった。
「ねぇ、おばあちゃん。あの人知り合い?」
 着物を着た青年は、一見しただけではただの人と同じで、小さなわたしはおばあちゃんの袖を引きながらそう問うたのだ。彼は、じぃっとこちらを見ていた。
「あの人って?」
 おばあちゃんはわたしの目線の先を追い、それが鎮守の森を示していると気づくと、どこか懐かしげな顔をした。
「……あそこに、男の人がいるよ」
「そう……元気そう?」
「……うん」
 おばあちゃんの目は鎮守の森を見つめていたけれど、青年のことを見つめてはいなかった。その横顔を見上げながら、ああ彼は見えない人なのだ、と気づく。
「あの人はね、神さまなのよ」

 その神さまと初めて話したのは、桜が舞い散る春の、おばあちゃんの葬儀の時だった。庭の桜の木の下で、その人はただ静かに立ち尽くしていた。
「おばあちゃんの、知り合い?」
 声をかけてはいけない、目を合わせてはいけない。不可思議なものとの距離を、わたしはこのとき自ら縮めた。そうしなければ、この人は消えてしまいそうな気がした。
 青年の赤い双眸が、ふるりと揺れる。
「……千代子の孫か」
 青年の口から零れたのは、棺の中で眠るおばあちゃんの名前だった。
 彼はわたしではなく眠るおばあちゃんのほうを見て、小さく呟いた。
「人というのは、ほんとうに果敢ない生き物だな」
 




 木々の合間に、狐火がゆらりゆらり。
 センに手を引かれながらわたしはその光景に見とれていた。いつもはひっそりと隠れているようなあやかしたちがえんやえんやと酒を飲んでは踊っている。
「千夏子は向こうへ行っては駄目だよ」
 くすりと微笑み、センが釘を刺した。
 センは、この鎮守の森の神さまだ。あやかしたちの祭りへと紛れ込んでから、センはしっかりとわたしの手を握っている。放してはいけないよ、とわたしにも念を押して。センの庇護下にあるわたしに悪さをしようというあやかしはいないらしい。
 中学生のわたしは、最初で最後の祭りを楽しむのに精一杯だ。
 金魚すくいもかき氷もないけれど、雰囲気だけで十分にお祭りだ。センと過ごせる、最初で最後の、祭りの夜だ。


 遠くから、どん、と花火の音がする。

「ああ、はじまったか」
 センが木々の合間から夜空を見上げて呟いた。人間のお祭りも、終わりが近い。
「おいで、千夏子」
 繋いだままの手を引いて、センは何処へとわたしを連れ出す。鎮守の森を抜けて、拓けたところへと出る。
 どん、と咲いた花が、眩しい。
「……花火」
 こんなところから見えるなんて、知らなかった。
 深い藍色の夜空を彩る花火は、咲いては散って、散っては咲く。風にのって火薬のにおいが濃くなった。
「夏祭りには、花火なんだろう?」
「そんなこと、いったっけ?」
 ここ最近では、そんな話をした覚えはなかった。けれどセンはやさしくほほえんで「言っていたよ」と囁く。
 ひゅるるるる、どん。
 ぱっと咲いた花火の七色に照らされるセンの横顔は、とてもきれいで。
「人の作るものにしては、なかなか粋だ」
「人の作ったもの、嫌いだよね」
 センはわたしはスマホをいじっているのを見ると怪訝そうな顔をする。どこまでがデッドラインなのかわからないけれど、とにかく神さまやあやかしは科学はお気に召さないらしい。
「違うよ、千夏子」
 センが苦笑してわたしを見つめる。
 赤い瞳は、夜空に咲く花火よりも鮮やかだ。
「私たちは、人を、人の作り出すものを、嫌いにはなれない」
 そう語るセンは、かなしそうで、せつなそうで、わたしは泣きたい気持ちでただ頷いた。
 なぜなら彼らも、人によって生み出されたものだから。目に見えぬものの存在を信じ、あらゆるものに魂が神さまが宿ると信じられてきた、その心が生み出したもの。

「花火」

 繋がれたセンの手は、冷たい。
 夏の夜の暑さに火照るわたしの心を、現につなぎ止めようとするみたいに。
「きれいだね」
 そうだね、というセンの相槌を聞きながら、どん、と震える空気を肌で感じる。ぱらぱらと咲いては消える花火の、なんて一瞬のうつくしさ。
 何も語らぬままにただただ空に打ち上げられては散っていく花火を、わたしとセンは見つめ続けた。花火があがる時間はそう長くない。さいごにひとつ、大きな大輪の花が夜空を彩って、そして静かに消えていった。
 しんと静まりかえったあとの、火薬の残り香。

「セン」

 口の中で苦くしみるその名前を、わたしは呼ぶ。
「だいすきよ」
 センはほほえんで、わたしのおでこにちゅ、と一度だけ口づけた。

 あやかしの祭りも、もうおしまい。










 夜が明ける。わたしは、今日十五歳の誕生日を迎えた。
 目をあけてすぐに、世界は変貌する。

 この不可思議な目は、十五になると途端に平凡になってしまうらしい。

 神さまに近しいのも、あやかしを見ることができるのも、子どものうちだけだ。
 わたしは世界から、もう子どもではないんだよ、というレッテルを貼られたのだ。だから、わたしはセンと、あの世界と、隔てられる。
 いつもと同じように制服を着て、いつもと同じように学校へ行って、いつもと同じように、足は鎮守の森へ向かう。けれどそこにあるのは静かな森だけで、昨日まで見えていたはずの小さなあやかしや、不思議な光は見えない。わたしの目は本当に不可思議な世界を捨ててしまった。
 いつもなら躊躇いなく入っていったはずの森にすら、足を踏み入れることができない。ただの人になってしまったわたしは、拒まれているようにすら感じる。
 目を閉じれば、今でも昨日の花火が咲くのに。
「セン」
 どこにいるの。
 ぽとりと涙が落ちて、わたしは目を閉じる。
 どん、と腹に響く音とともに咲いた花火が、幾度も幾度も蘇る。けれど咲くのはほんの一瞬だ。永遠に咲く花火なんてない。
 彼らにとってのわたしたちがそうであるように。
 人とあやかしの、人とかみさまの歩む道は同じではないのだ。時折、気まぐれに交わるだけ。

「千夏?」
 
 うずくまるわたしの頭上から、心配そうな声が降ってくる。
 のろのろと顔をあげると、そこには最近疎遠になっていた幼なじみの姿があった。
「……ゆうちゃん」
「どうした、どっか具合でも……」
 こうして話すのはいつぶりだろう。小学校の高学年の頃くらいからお互いに距離を持ち始めていた。異性という壁ができて、幼い頃のように無邪気に傍にいられなくて。
「立てる? おぶってやろうか」
 久しぶりなのに、ゆうちゃんは相変わらずやさしい。
 差し出された手を握ると、じわりと伝わってくる体温の熱さがしみてくる。骨ばった手はすっかり男の人の手だ。
「だいじょうぶ、歩ける」
 そう答えても手は何となく離せなかった。ゆうちゃんも何も言わずにそのままわたしの手を握る。
「おまえ、昨日なんで祭りに来なかったの」
 ゆうちゃんの問いに、わたしはくすりと笑った。
「行ったよ」
 お祭りには、行ったよ。
 最初で最後の、お祭り。
 センと過ごす、最後の夏。
 ゆうちゃんは釈然としない様子だったけれど、わたしはそれ以上何も答えなかった。頭の中ではまた、遠く花火の音がする。けれどそれも、いつしか聞こえなくなるだろう。目を閉じても、花火は咲かなくなるだろう。
 そうしてわたしは、おとなになってゆく。

 さよなら、わたしのだいすきなかみさま。


inserted by FC2 system