わたしのあるじ様



 わたしのあるじ様は、偏屈で堅物で人間嫌いの魔法使い。
 漆黒の髪はきちんと手入れすれば艶やかでうつくしくなるというのに、お風呂に入ることも髪を洗うこともめんどくさがる困ったお人だ。
「あるじ様、……イゼル様」
 イゼル・アークヴェル。それがわたしのあるじ様の名前。幼いわたしを拾い育て、今もなお生きがいをくださるお方。
 あるじ様は机に向かったままちっともこちらを見てくださらない。分厚い本に目を落として、何やらぶつぶつと呟いている。きっとあるじ様の頭の中には複雑で到底理解できない難解な魔法の仕組みが組み立てられているに違いない。
 昨夜寝る前に用意しておいた夜食は、まったく手をつけられていなかった。ため息を吐き出して、それを回収する。本当に、魔法のこととなるとまるで他が見えなくなってしまう。
「あるじ様」
 わたしは床に積み上げられた本を器用に避けながら、あるじ様のもとへ向かう。肩をとんとん、と叩く程度ではぴくりともしない。このままではせっかく用意した朝食まで冷めてしまう。
「イゼル様」
 心を鬼にして、あるじ様と本の間でぱんっと手を叩く。
 大きな音と、突然視界に現れた異物にあるじ様は青い瞳を見開いた。そして「ああ」と今ようやく気づいたふうにわたしを見る。
「レシュ」
 無表情のあるじ様は、とてもとてもうつくしい顔をしている。
「朝です。朝食を用意しましたから食べてください」
「ああ、レシュ。今とてもいいところなんだ。それだというのに君のおかげでせっかく思いついたはずの公式がひとつ吹き飛んだ。どうしてくれるんだ、人類の損失だ」
「あるじ様の嫌う人類の損失なら、なんら問題ありませんね。食事もとらずに没頭するのはおやめくださいと、何度も何度も、何度も、申し上げているはずです」
 強い口調で告げると、あるじ様は少しだけ顔色を変えて「む」と唸った。
 あるじ様はその類まれなる魔法の才と、そのうつくしい容姿ゆえに苦労されたらしい。今ではすっかり人間嫌い、人間不信となって、このお屋敷に引きこもっている。使用人はいないので、わたしが一人ですべてをこなしているのだ。
「あるじ様の素晴らしい頭脳であれば吹き飛んだ公式なんてすぐに思い出します。さ、早く朝食にしましょう? わたしもお腹が空きました」
 あるじ様は「むむ」と唸ったあとで、ゆっくりと立ち上がった。すらりと背の高いあるじ様は、わたしよりも頭二つ分は高い。
 さて、あとはなんと言ってお風呂に入ってもらおう。

 あるじ様は朝食を無言で食べている。おいしいともまずいとも何も言ってはくださらないけれど、いつもすべて綺麗に食べてくださるのだ。
「レシュ」
「はい」
 向かいで同じようにわたしも朝食を食べる。これは、わたしがあるじ様に拾われたときからずっとだ。本来ならば同じ席で朝食を食べることなど恐れ多いけれど、あるじ様の言いつけだから仕方がない。
「朝食のあと、診察をする」
「……はい」
 くすりと笑いながら、わたしは頷いた。
 診察といっても、わたしの身体が病に侵されているわけでも、怪我を負っているわけでもない。食器を片づけると、わたしはあるじ様の部屋に向かう。あるじ様はソファで本を読んでいたけれど、わたしがやってきたことに今度は気がついて顔をあげた。
 服を、と小さくあるじ様が呟くので、わたしは着ている上着を脱ぎ、上半身は何も身に纏っていない姿のまま、あるじ様に背を向ける。胸の前で服を抱えて、するりと背を撫でるあるじ様の指先を感じていた。
 ――わたしの背には、大きな傷跡がある。
 それは、あるじ様がわたしを拾ったときに、負っていた傷だ。わたしの住んでいた小さな村は隣国に攻め入られ、村人は若い娘のほかはほとんど殺された。あるじ様が地面に転がるわたしを見つけたときには虫の息で、いつ死んでもおかしくないような状態だった。あるじ様が魔法を使い血を止めて手当し、屋敷へと連れ帰って看病してくださったが、わたしの背には痕が残った。
 それを、あるじ様は悔いている。
 もっと早く見つけていれば。あるいは、もっと強い魔法が使えていたのなら、と。
「もうすぐだ」
 大きな掌が、わたしの背に触れる。
「もうすぐで、この傷跡も消せる」
「……消せる?」
 どういうことだろう。あるじ様に拾われ、お仕えするようになってもう五年以上、数週間に一度はこうしてわたしの傷跡を確認していたけれど、深い意味などないのだとばかり思っていた。
「もうすぐ、新しい魔法ができる。治癒魔法とも、回復魔法とも少し違うが」

 ――ああ、なんて。

 なんて、お人だろう。
 こんなわたしのために、この方は。こんな傷跡ひとつのために、この方は。新しい魔法を作り出すというのだろうか。
 この傷ひとつ、わたしにはあなたのつながりと思えばいとおしいのに。
 
「イゼル様」

 喜びに震える胸を押さえながら、わたしはあるじ様を呼ぶ。
「どうした」
 なんの感情も宿さないようで、わずかにやさしさの滲む低い声が、わたしはたまらなくいとおしい。
「胸が、くるしくて」
「胸が?」
 あるじ様の声に心配そうな色が滲み出る。はい、とわたしは頷きながら微笑む。
「なにか悪いものでも――とにかく診せてみなさ……いや、医師を呼ぼう」
 上にはなにも纏っていないままのわたしを思い出したのだろう、あるじ様は目を逸らし、素知らぬ顔で立ち上がる。あるじ様、お医者様だろうと他の人が屋敷に来るの嫌がるじゃないですか。薬草の知識だってお持ちではないですか。
 逸らした顔が、赤いのは気のせいでしょうか?
 くすくすと笑いながらわたしは服を着て、あるじ様、ともう一度呼ぶ。どうした、そんなに苦しいのか、とあるじ様はわたしの嘘にも気づいてくださらない。
 胸の苦しみは、あなたのせいですよ、あるじ様。イゼル様。あなたがいとおしくてしかたないんです。


 不器用でめんどくさがりで、それでもとびきりやさしくて素晴らしい、わたしの大切なあるじ様。
 今日もわたしは、あなたのおそばにおります。



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