オリザ




 あまり屋敷にいない父様も母様も、良き領主になるために勉強しなさい、と言う。だから僕は勉強ばかりしていた。前の家庭教師の先生は、僕のことを優秀な生徒だと褒めた。
 でも新しい先生は最初の授業が終わった後、ため息を吐き出して言った。
 あなたは人形のようですね、と。


 久しぶりに、屋敷の中は騒がしかった。長い間実家に戻っていた僕の乳母がまた屋敷に仕えることになったからだ。乳母のアリサは僕が五歳になる前に屋敷を去ったので、僕自身にはあまり彼女に関する記憶がない。
「お久しぶりです、ルートヴィッヒ様。もう十二歳になられたんですね」
 大きくなりましたね、と目の前で柔らかく微笑む人がその乳母だという。ぼんやりとした記憶の中に少しだけ面影が残っているような気がした。
「久しぶり」
 短く答えると、アリサは困ったように微笑んだ。
「……ルートヴィッヒ様は、色が白いですね。あまり外に出ていないのではありません? 少しだけ、私と散歩でもしましょうか」
 僕を気遣うように、アリサは声をかけてきた。拒む理由もないから、僕は頷く。
 アリサが玄関を開けると、外の眩しさに目を細めた。用もないのに外へ出るのはどれくらいぶりだろう。
「いい天気ですね」
 アリサが気持ちよさそうに呟く。確かに今日は晴れているし、気温もちょうどいいくらいだ。
 僕はアリサに急かされるまま、庭に出た。ちょうどその時だ。
「ちょ、ちょっとだけ我慢してね。すぐにおうちに帰してあげるから、て、あ、わっきゃあああっ!」
 突然の悲鳴が聞こえたかと思うと、目の前に人が落ちてきた。まだ青い若葉がぱらぱらと上から降ってくる。
「ま、まぁ! ルートヴィッヒ様、お怪我はありませんか?」
 アリサは一瞬だけ驚き、そしてすぐに僕の無事を確認した。僕の真上に落ちたのではないから、もちろん怪我はない。
「……あなたも大丈夫? オリザ」
 アリサが落ちた人を振り返りながら問う。薄手のコートを着た女の人だ。
「だ、大丈夫です」
 アリサを見上げて答えている顔には、あちこち擦ったような傷がある。
「ルートヴィッヒ様、私と一緒にこの屋敷にやって参りました、オリザと言います。明日より屋敷で働くことになりますので、どうぞよろしくお願いしますね」
 アリサが僕を振り返り、その人を紹介した。
「は、はじめまして! オリザといいます! 十六歳です!」
 よろしくお願いします、と頭を下げた彼女の手の中で、ピィと小さな鳴き声が聞こえた。手のひらに優しく包み込まれるように、小さなヒナがいる。
「あら、かわいいこと。巣から落ちてしまったの?」
「ええ、そうみたいなんです。だから親鳥が帰ってくる前に戻してあげようと思ったんですけど」
 失敗しちゃいました、と彼女は恥ずかしそうに笑う。僕が知る限り、女性が木登りするなんてはしたないことのはずだ。それに。
「無駄だよ。巣から落ちて、人の匂いがついたヒナは親鳥に見捨てられるんだから」
 前に読んだ本にそう書いてあった。だから僕は助言のつもりでそう言った。けれど彼女は、目を大きくして首を傾げる。
「そんなこと、やってみなくちゃ分からないじゃないですか」
 驚いた。本に書いてあることをそんな理由で否定したことに。
「これでも木登りは得意なんですよ。ちょっとこの服じゃやりにくいんですけどね」
 長いスカートは彼女の足首まである。
「まぁ、今庭師を呼んでくるわ。ちょっと待っててちょうだい」
 アリサが驚いて奥にいる庭師を呼びに行こうとすると、彼女は「いえ」と遮る。
「大丈夫です。早く戻してあげないと、親が戻ってきちゃう」
 そう言って彼女は片手にヒナを大事そうに持って、するすると木の上に登り始めた。猿みたいだ。
「あらあらまぁ、すごいわねぇ」
 アリサが感心したように彼女を見上げていた。
 あっという間に彼女はヒナを巣へ戻し、登った時と同じように器用に降りてきた。
「二回目ですからね、コツは掴みました」
 何も言わない僕とアリサを見て、彼女は笑う。変わった人だな、と僕は思った。



 彼女はとても目立った。
 声が大きいから近くにいるとすぐに分かるし、失敗ばかりしているようで叱られているところをよく見かける。それに彼女も、僕を見つけると必ず話しかけてきた。
「あ、おはようございます、ルートビヒ様」
 書斎へ行こうと思ったら、廊下の掃除をしていた彼女と会った。
「ルートヴィッヒ」
 このやり取りも何回目だろうか。彼女は僕の名前をうまく言えないらしい。
「あ、す、すみません。長い名前って苦手で……」
 僕が言い直すたびに彼女はしょんぼりと肩を落とす。年上のくせに、僕よりも子どもっぽい。
「……ヒナは元気?」
 彼女は会うたびにあの時のヒナの様子を報告してくるので、僕はついそう聞いてしまった。すると彼女はぱっと顔をあげる。
「はい! すごく元気なんですよ! お仕事の合間に様子を見に行くんですけど、親鳥からいっぱいごはんをもらってるみたいです!」
 さっきまで落ち込んでいたのに、生き生きと話す彼女に僕は少し呆れた。
「そう。よかったね」
「はい! あ、じゃあ今から見に行きますか?」
「え? いや、僕は」
「善は急げです! 行きましょ! ルートビーヒ様!」
 ルートヴィッヒ。そう訂正する暇もなく気がつけば彼女に腕を引かれていた。
 彼女は玄関を開けて振り返る。
「今日もいいお天気ですよ!」
 そう言って、飛び込んできた日の光を背に笑う彼女は、すごく眩しかった。

「ほら、見えますか? あそこです」
 彼女は木の下に僕を連れてくると、上を指差した。
 巣をすぐに見つけることが出来ずに目を凝らしていると、彼女は僕と目線を合わせて、またその巣を指し示した。
「……あ」
 緑色の葉っぱの中に、枯れ枝を見つけた。器のような形の巣の中には数羽のヒナがいる。餌はまだかと主張して口を大きく開けていた。
「見つけました? まだまだ小さいですよね」
 どのヒナがあの時のヒナなのかは僕にはわからなかった。けれど彼女は巣を見上げてうれしそうに笑っている。
「あ、無理やり連れ出してすみません。ルートビーヒ様。書斎に行かれる途中だったんですよね?」
 僕が持ったままだった本を見て、彼女は今さら気づく。
「……いいよ、書斎でこの本を読もうと思っただけだから」
 無理やりだったことは否定しない。
「それなら、外で読むのも気持ちいいかもしれませんよ? 今日は風もあったかいし、日差しも強くないですから」
「外でって……どこに座って?」
 椅子でも用意してもらえばいいんだろうか、と僕が悩むと彼女は当たり前のように木の下に腰を下ろした。
「ここに座ればいいんですよ。ほら、日陰になっててちょうどいいじゃないですか」
 彼女は座ったまま僕を見上げてくる。
 ……地面に座るなんて考えたこともない。そんなこと習ったこともない。
「汚れるよ?」
「大丈夫ですよ。土は乾いてるし砂が服についたら払えばいいんです。嫌なのでしたら私の膝に座りますか?」
 ぽんぽん、と膝を叩かれてかっと顔が熱くなった。十二歳にもなって膝に座るなんて。
「いい」
 僕はそのまま彼女の隣に腰をおろして本を開いた。木漏れ日が開いた本の上に影をつくる。風は頬を撫でる程度。
 確かに、心地よいような気がした。


「ちょっとオリザ! ここの掃除を放り出して何してたの!」
 屋敷に入り、彼女と別れてすぐ、廊下の角で怒鳴り声が聞こえた。思わず部屋に入ろうとしてやめる。
「すみません、すぐにやります」
「当たり前でしょう! さっさとしなさい!」
 そう怒鳴った使用人はずかずかと大きな音を立てて去っていく。
 彼女の様子を見てみると、いつもと何の変わりもなくただ黙々と箒を手に掃除している。
「僕を言い訳に使えば良かったのに」
 僕と一緒にいたのは本当なんだから。僕のわがままに付き合っていたんだとでも言えば、あそこまで怒られることもなかっただろう。
「どうしてですか? 確かにルートヴィヒ様と一緒にいましたけど、それと私がお仕事しなかったのは別ですよ?」
「……ルートヴィッヒ」
「え、あ、すみません」
 僕が言い直すと彼女は肩を落とす。こんなことで簡単に落ち込むくせに。
「そんなに名前にこだわることないじゃないか。他の人は皆お坊ちゃまって呼んでるんだから」
「ダ、ダメですよ! 名前は親からもらう初めての贈り物なんですよ? 大切にしなきゃいけないんです! ちゃんと言えるようにがんばりますから!」
 力説する彼女に呆れて、僕は呟く。
「……ルーイでいいよ」
「え?」
 なんとなく気恥ずかしくて彼女を見ることができず、僕は横を向いたまま続けた。
「ルーイでいい。小さい頃に使っていた愛称だけど」
 それも母様やアリサくらいしか呼ばなかった。
「はい、ルーイ様!」
 彼女は嬉しそうに笑って、僕を呼んだ。



 それから僕は、ほんの時々だけ外で本を読むようになった。
「ルーイ様!」
 僕を呼ぶ声が聞こえる。顔を上げなくても誰だか分かった。この屋敷で唯一まともに僕の名前を言えない人。
「ここにいたんですか。私もちょうど休憩中で、ヒナを見に来たんですよ。もう毎日の日課みたいになってるんですけど、日に日に大きくなっていくから楽しみで」
「本読んでるから、静かにして」
 このままでは止まりそうにない彼女のおしゃべりに釘を刺して、僕はまた本を読み進める。彼女は「はい」と小さく答えて、僕の隣に腰を下ろす。
「気持ちいい風ですね。ピクニックにでも行きたいくらいです」
「……」
 独り言なのか僕に向かって言っているのか。ただ僕は黙ったまま返事はしなかった。
「想像したら何かお腹空いてきません? 料理長に何か作ってもらいましょうか」
「……」
「ちょっとだけピクニック気分を味わえますよ? 名案だと思いません?」
「……オリザ」
 ふぅ、とため息を吐き出して僕は本を閉じた。
「邪魔しないでって言ったつもりだったんだけど」
「邪魔なんてしていません。独り言ですから」
 にっこりと笑ってオリザは言い切った。大きな独り言だ。
「お腹空きません?」
「……少し」
 素直に答えると、オリザは満足げに微笑んで調理場へと走った。その後ろ姿を見送りながら、僕はまた本を開く。
 一緒にいる時、オリザはよくしゃべった。僕が聞いてもいないことまでたくさんのことを。
 家は農家なのだとか、妹と弟がたくさんいるんだとか、だから自分は家のために働いているんだとか。
 オリザのことがほとんどだったけど、あの花が綺麗だとか空が青いとか、そんな当たり前のことをオリザは特別なことのように話していた。
 オリザと一緒にいると、僕の目に映る世界まで鮮やかになるようだった。




 それからしばらくして、オリザがアリサと一緒に僕の部屋にやって来た。
「今日よりルーイ様付の使用人を務めさせていただくことになりました。よろしくお願いしますね」
 オリザと一緒にやって来たアリサがやけに嬉しそうに笑っていた。今まで僕専属の使用人なんていなかったのに、どういう風の吹きまわしだろう。
「オリザにとっても良い経験になると思います。また、ルートヴィッヒ様にも良い影響があるでしょう。仲良くやってくださいね」
「はい、がんばります!」
 オリザはともかく、どうして僕まで。そんな疑問も浮かんだけれど、わざわざ問うのは面倒だった。ここ数日は毎日のようにオリザと顔を合わせていたし、そのたびに話しかけられた。それが当たり前になるだけだろうと僕は気にしなかった。
 オリザはおしゃべりだけど、一緒にいても不思議と鬱陶しくはない。むしろ新鮮だった。オリザは僕が知らないことも知っていたし、僕が考えないことも考えた。
 僕が知っているのは本に書いてあることばかりで、オリザが知っているのは本に書いてないようなことばかりだった。僕は花の名前を知っているけど、オリザはその花の蜜が甘くておいしいと言う。
 部屋で本ばかり読んでいると、オリザは僕の腕をひっぱって外へ連れ出した。そして僕の知らない世界を教えてくれた。
 僕はそんな日々に満足していた。今までと違うことにとまどうことはあったけど、それ以上に楽しかった。


 そしてオリザは僕の世話を中心に仕事をするようになった。特別な仕事があるわけでもなく、彼女は相変わらず掃除をしたりお茶を淹れたりしている。
 家庭教師の先生の授業が終わって、部屋に戻ろうとしていた時のことだった。
「いいわよね、あんたはお坊ちゃんのご機嫌とってればお給料がもらえるんだから!」
 そんな声が廊下に響いた。その後すぐに何かが割れる音。
 お坊ちゃんという言葉に、僕は思わず角を曲がらずにそのまま隠れた。
「こっちはそれだけじゃないのよ、あんたみたいに呑気にしてられないの!」
 そして大きな足音が向こうへと去っていく。
 途端に静かになった。僕には何があったのか、何が起きたのかよく分からなかった。ただ言えるのはあんなキツイ言葉を投げつけられたのはオリザだということ。
少し躊躇いながらも僕は一歩踏み出して、廊下でしゃがみこんでいるオリザを見る。
「……オリザ」
 声をかけると、オリザは顔をあげた。いつもと変わらず、優しく笑って。
「ルーイ様、どうされたんですか?」
 オリザは割れた破片を拾っていた。
「どうして言い返さないの?」
 問いかけると、オリザは苦笑して「聞こえてましたか」と言った。
「あの人には、あの人なりに辛いことがあるんですよ。それに、私が仕事できないのは本当のことですし」
「でも!」
 なぜかはわからない。けど僕は許せなかった。
「オリザはがんばってるじゃないか!」
 失敗してもめげずに笑っていた。それがすごいなって僕はずっと思っていた。
 それなのにオリザは「仕方ない」と笑うだけで怒りもしない。オリザは別に僕の機嫌をとっているだけじゃない。ちゃんと仕事をしている。それを僕は知っていた。
「家のために働いているじゃないか! それをあんな風に言われてっ」
 唇を噛み締めて、手を握りしめた。よくわからない熱い何かが胸の奥からふつふつと沸き上がってくるような感覚だった。
「ルーイ様」
 オリザは優しく微笑んで僕の手を包み込んだ。オリザの手は、かさかさだったし、固かった。働いている人の手だ。
「私のために、怒ってくださってありがとうございます」
 そう言ってオリザは笑う。嬉しそうに。本当に嬉しそうに。
 そうか。

 ――僕は、怒っていたのか。





 オリザは変わらなかった。今までと同じように仕事をして、その合間に僕に話しかけてきた。
 僕はどうしたらいいのか分からなかった。
 何かに対してあんなに怒るなんて、初めてのことだったから。オリザがあんな風に言われたことにも腹がたったし、それを仕方ないと言ってしまうオリザにも怒っていた。行き場のない感情を上手く片付けることができずに、僕は少しだけオリザから遠ざかった。
 逃げるようにやってきたのは、書斎だ。
 書斎を使っているのは僕くらいしかいない。もともとは父様の書斎だけど、屋敷を留守にすることが多く本を置くだけの部屋になってしまった。
 僕はオリザには何も言わずに書斎で本を選んでいた。言えばたぶんついて来ただろう。
 何代も前から集められた本はいくつもの本棚を埋めていた。僕は長い時間そこにいたんだと思う。僕以外の人がやって来たことに気づかなかった。
「オリザもたいへんよね」
 突然の声に、僕は驚いて持っていた本を落としそうになった。
「なんで?」
 オリザの声だった。僕は本棚の陰に隠れながら声の聞こえる方を見た。オリザと、知らない使用人が本を抱えて立っている。
「だってあのお坊ちゃんの相手をしてるんでしょ? なんか不気味じゃない。あの子。子どもらしくないっていうか」
「そうかな? そうでもないよ」
 僕は隅にうずくまって、膝を抱えた。ばくばくとうるさい心臓の音が二人に聞こえるんじゃないかと心配していた。聞いてはいけない会話だということは、分かっている。けれど身体は動かなかった。
「私も長いことここで働いてるけどさ、お坊ちゃんが笑ったり泣いたりしてるとこ、見たことないよ? いくら厳しくしつけられてるからってもう少し子どもらしい一面があってもおかしくないでしょ? それがないの。まるで人形だわ」
 気持ち悪いわ、と呟く声に、僕は何も言えなかった。
『あなたは、まるで人形のようですね』
 少し前に、先生に言われた言葉を思い出した。
 その時は何を言っているんだろうと思った。
『人間らしさがない。そこでお行儀よく座っている人形となんら変わりありません』
 まったく同じことを、今言われている。
 頭を何かで殴られたような衝撃だった。先生に言われた時には何も感じなかったのに。
「そんなことないよ」
 沈んだ僕の心を、オリザの声がすくいあげた。
「ルーイ様だって笑うこともあるし、怒ることもあるよ。それに、すごく優しいの。私よりずっと物知りだし、真面目だし」
 それにね、とオリザはぽんぽんと僕を褒める言葉を言う。聞いている方が恥ずかしくなるくらい、溢れる褒め言葉に僕はいたたまれなくなった。
「はいはい、わかったわかった」
 呆れたような声がオリザの言葉を遮って、ようやく僕に対する賞賛の嵐は止んだ。
「まぁ、確かに……お坊ちゃん、少し変わったけどね」
 声と一緒に、扉の開く音がする。
「あんたが来てから、少しだけ空気が優しくなった気がするよ」
 その言葉は、少しずつ遠ざかり最後の方はかすかにしか聞こえなかった。でも、僕の耳には確かに届いた。
 パタン、と静かに扉が閉まる。
 一人きりになった書斎は、すごく静かになった気がした。
「……僕は、変わったのかな」
 呟いた声は、思った以上に大きく部屋の中に響いた。
 分からなかった。なんだか分からないことだらけだ。僕には変わったかどうかの自覚なんてなかった。
 なんとなく窓際に寄って外を見た。ちょうど、あの鳥の巣のある木が見える。巣は葉っぱに隠れて見えないけど、親鳥らしき鳥が木の近くを飛んでいた。
 空は曇っている。もしかしたら雨が降るかもしれない。今日外で本を読むのは止めておいた方がよさそうだ。
「ルートヴィッヒ様、こちらにいらしたんですか」
 ノックの音に気づかなかったみたいだ。いつの間にかアリサが書斎の扉を開けてこちらを見ている。
「先生がいらっしゃってますよ。お勉強の時間です」
 もうそんな時間だったのか、と思った以上に時間が経っていたことに驚かされた。
「……今行く」
 短く答えて窓に背を向ける。
「ああ、必要ありません。今日はここで授業をしましょう。たまにはいいでしょう」
 アリサの後ろから顔を出した男は、僕の家庭教師だ。僕は、この人が少し苦手だ。いつも淡く微笑んでいて、何を考えているのか分からない。
「……どうかされましたか? 少し顔色が悪いようですが」
 先生が僕の顔をじっと見て問う。
「いえ、別に……」
 何もない、と言おうとして何故か言えなかった。具合が悪いとか、そういうことは、まったくない。
 先生は僕を見て微笑んだ。その、何もかも見透かされてしまうような目がなんだか嫌だった。
「温かいお茶を持ってきていただけますか」
 隣にいたままのアリサに先生は言う。アリサは「はい」と短く答え、すぐにその場から去った。
「悩みごとがあるのなら、誰かに話した方が楽になりますよ。まぁ私に話せとは言いませんが」
 先生は部屋の中央に置いてあるソファに腰を下ろした。
「……先生は、以前僕のことを人形のようだとおっしゃいました」
「ええ、そうですね」
 さらりと先生は肯定する。
「どうして、ですか?」
 すがるような思いで質問を投げかけた。
 先生は顎に手を添えて、また僕をじっと見る。まるで何かを確かめるように。
「生きている、という感じがしなかったんですよ。あなたからは人間らしさや人間臭さ――そう、子どもらしい一面がなかったんです。大人に従順でありすぎるが故に、あなたからは自らの意思を感じなかった」
 人形のようだ、という言葉より明確な言葉を、僕はただ素直に受け止めた。
「そして実際、あなたは人形のようだと言われても何も言わなかった」
 そうだ。だってあの時は何も感じなかったから。おかしなことを言うな、程度にしか思わなかったから。
「それなら先生。生きてるって、なんですか」
 先生は笑う。
「それは難しい質問ですね」
 まるで答えを知っているような顔だった。



 心臓が動いている。呼吸している。それは生きている証拠だ。けれど僕が求めてる答えはそんなものじゃなかった。
 先生は結局答えを教えてくれず、授業は終わった。にっこりと意味ありげに微笑むだけで、肝心なことは言ってくれない。やっぱりあの先生は苦手だ。
「ルーイ様、お茶ですよ」
 ずっと答えを考えている僕の前に、オリザがそっと紅茶を置く。珍しく一度も転ぶことなく無事に運べたみたいだ。
 オリザは、図書室での会話を僕に聞かれていただなんて思ってもみないだろう。オリザのたった一言で、どれだけ僕が嬉しかったかなんて。
「……ねぇ、オリザ」
 お茶を運び終えたオリザは部屋から出ていこうとしているところだった。声をかけると、オリザは振り返って「はい?」と答える。こうして真っ直ぐにオリザを見るのは久しぶりだ。
「生きてるって、なんだと思う?」
 オリザはぽかんと口を開けた。質問されるとは思っていなかったんだろう。
 うーん、とオリザは少し考え込むように黙り込む。僕はまさに藁をも掴む心地だった
「えーと……そうですね。寝て、起きて、食べて……それから笑ったり怒ったり、時々泣いたり、いい天気だなぁとか楽しいなぁって思ったり感じたり……そういうことじゃないでしょうか?」
 今度は、僕が驚く番だった。
 それはあまりにも単純な答えで、僕では決して思いつかないものだった。
「あ、ははは」
 思わず笑みが零れた。僕が求めていた答えは、なんて簡単なものだったんだろう。そのことに気づかされると、おかしくて仕方なかった。
 そう。僕は確かに人間らしくなかった。寝て起きて食べて。その動作を繰り返すばかりで僕は思うことをしていなかった。大人に言われるがままに動いているだけで。
 良き領主になれ、という両親の言葉に従って勉強ばかりをして。こうしてはいけないと先生に言われたからその通りに従って。そこに僕の意思はなかった。
「わ、私そんなに面白いこと言いましたか?」
 笑い始めた僕を見てオリザが情けない顔をする。間違いを指摘された子どもみたいに。
「ううん」
 僕はきっぱりと答える。
「オリザは、今すごいことを言ったんだよ」
 それはまるで僕を変える魔法の呪文みたいに。



 今日はいい天気だ。青い空を見上げて思う。
 庭に出ると、風がやさしく木を揺らしている。僕は一本の木を見て思わず微笑んだ。
「ルーイ様!」
 オリザの声が聞こえて、僕は振り返る。オリザが慌てた様子で駆け寄ってきた。
「こんなところにいらしたんですか! 先生がお待ちですよ!」
 最近よく何も言わずに外へ出ている僕を追いかけてくるのは決まってオリザだ。敷地内からは出ていないといっても、屋敷は庭まで含めると広い。
「待って。今日だけ見逃して」
 オリザが僕の腕を掴んで屋敷まで連れ戻そうとしたので、僕はささやかに抵抗した。いつも見つかれば大人しく帰っていたから、オリザは不思議そうに僕を見る。
「何かあるんですか?」
 その問いに、僕は木の上を指差した。
 僕につられるようにオリザが木を見上げる。
「今日みたいなんだ。巣立ち」
 見た目だけはもう親鳥と変わらない姿のヒナたちが、今にも巣から飛び出そうとしている。まだ決心がつかないのか、どれも羽をばたばたさせているだけだ。
「あっ」
 オリザが声を上げる。
 一羽のヒナが意を決して巣から飛び出した。親鳥と比べるとまだ少し不安定に。それでも確かに空を飛びまわっている。
 それに続くかのように次々とヒナたちは空へと飛び出した。
「よかった。皆無事に巣立ちましたね」
 最後の一羽が巣立った。まだ僕らの見える範囲を飛び回っている。遠くへ行くのは怖いのかもしれない。
でもあの小さな鳥たちは、もう自分の意思で飛んでいる。
「すごいね。まだ生まれたばかりなのに、もう自分たちの力で生きていくんだ」
 そう思うと、あんなに小さな生き物なのに僕よりもずっとすごい存在のように感じる。
「動物も、植物も、強い生き物ですからねぇ」
 オリザは微笑みながら空を見上げている。オリザのその一言は、僕には大きな発見のように感じた。
「……ねぇ、オリザはこれから仕事?」
「はい、そうですよ?」
 首を傾げながらオリザは答える。たぶん、僕は今この瞬間、イタズラを思いついた子どもと同じ顔をしているに違いない。
「サボって、ピクニックにでも行かない?」
 だって、こんな天気のいい日に――こんな素敵な日に、部屋にこもって勉強なんてもったいない。
 オリザは僕の言葉を飲み込むように黙り込んで、そして笑う。このイタズラの共犯者のように。
「……今日だけですよ?」
 僕は何も答えずに、その手をとって走り出した。



 食べて、寝て、起きて。怒って、笑って、時々泣いて。僕は自分で考え、選び、行動している。
 誰にも、僕のことを人形みたいだなんて言わせない。

 僕は今、確かに生きているから。


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