「貴女を迎えに来たんです」

 ――貴女の、養父ちちに頼まれて。
 突然の訪問を詫びたあとに、彼はそう言った。静かに雨が降る午後のことだった。

 そうこれは、嘘つきたちの愚かな旅のはなし。






 しばらく前にコトンと置いたコーヒーがすっかり冷めてしまっている。
 目の前に座る赤毛の青年は、私の目を見ずに、コーヒーにも手をつけずに、訥々と語った。
「私の名はライアン・オネストといいます。貴女の養父アイゼン・リューグナーと同じく、傭兵で」
 アイゼンは確かに私の養父だ。この家の主でもある。
 幼い頃、十年ほど前のことになる。アイゼンが仕事を終えて野営地に戻る途中、焼き払われた村を通り過ぎた。その村にいたのはほとんどが死人で、生き延びた者はどこかへ逃れたのか、それとも皆殺しだったのかはわからない。国境近くの辺鄙な村。こんな不運なこともあると大きくなってからアイゼンの傭兵仲間から聞いたことがある。
 その村で私はひとり、生きていた。膝を抱えて震えていたのだという。生憎この頃の記憶は曖昧で、私の脳裏には私を抱き上げたアイゼンのたくましい腕の感触とぬくもりだけが鮮やかに残っていた。
「アイゼン殿は、今回の仕事で負傷してしまいまして。しばらく動くことができないんです。それで貴女に来てほしいと」
 彼は薄青の目を伏せて、時折その瞳を泳がせて語った。だから私が貴女を迎えに来ました。貴女の養父のもとへ無事に届けるために。彼はそう告げる。
 嘘だ、と思った。
 アイゼンが何カ月も家をあけることは珍しくない。その間私のことはこの街の人々にくれぐれもよろしくと何度も頼んでいたけれど、怪我をして動けない、ユレン、頼むから来てくれなんてことを言ったことは一度もない。どんなに大怪我を負っても、彼は歩き出せるようになったらその大きい身体を引きずってでも自分の足で帰ってきた。
 アイゼン・リューグナー。私の恋する養父は、私にあらゆることを教えた。人体の急所やら護身術やら、野営の方法までさまざまで、人の嘘の見分け方もそのひとつだった。
 だから分かる。分かってしまう。この青年は、ライアン・オネストは、嘘をついている。
 アイゼンは帰ってくると約束した。ならば私はここで彼の帰りを待たねばならない。しかしライアン・オネストは、私に来いと告げる。どこへ? アイゼンが動けずにいる場所へ。
 私はくっと唇を噛んだ。そうしなければ無表情の仮面が剥がれてしまいそうだった。
「年頃の女性の一人旅は危険ですから、私のことは護衛とでも思っていただければ」
「……護衛とおっしゃるのなら、謝礼はいかほどでしょうか」
「ご心配なく。アイゼン殿からいただいております」
 謝礼のすべてを? それとも前金だけを? 意地悪にそう問い詰めたくなって苦笑した。
「わかりました。出立は明日でもよろしいですか? 準備しないと」
「もちろんです」
「宿はお決まりですか」
「ええ、既にとってあります」
 そうですか、と私が答えたのを合図に彼は立ち上がった。結局コーヒーには手をつけてないままだ。
「……では明朝、お迎えにあがります」
「はい」
 嘘だとわかった。わかってしまった。
 けれど私は彼の手をとった。

 アイゼンの馬鹿野郎。どうせならもっと嘘の上手な人を寄越せばいいのに。
 パタンとしまった玄関を見つめて私はしゃがみこんだ。アイゼンは、私が見知らぬ傭兵仲間にこの家のことなど告げない。ここは私を守る砦だから。
 だから彼がこの家を知っているということは、私がユレン・リューグナーであると知っているということは、アイゼンの意思がそこにあるからだ。
 アイゼンは死んだ。
 死んでしまったのだ。だから、動けないのだ。だから、帰ってこれないのだ。
 玄関が開いて、冗談だ騙されたか? なんて笑って帰ってきてくれたらいい。タチの悪い冗談も、今なら許せる。
 けれど日が暮れても、玄関はぴくりとも動かなかった。


 それから家の中を片付け、保存のきかない食糧で食べきれないようなものは近所の夫婦に渡した。ついでにしばらく家をあけることを告げて合鍵を預ける。
「大丈夫なのかい、ユレン」
「大丈夫よ。心配しないで」
「そうは言ってもねぇ……」
 夫婦は私が拾われた頃からの付き合いで、幼い頃はアイゼンが仕事へ行くたびに預けられた。旦那さんがアイゼンの昔馴染みなのだ。親のように私を可愛がってくれている。
「だってあのアイゼンがよこした人よ? 心配いらないわ」
 アイゼンの親馬鹿っぷりというのも有名で、自分の認めた男以外は私に近づくことを許さなかった。
「アイゼンも本当に……もういい年なんだから無茶しないでほしいねぇ」
 その言葉にきゅっと胸が小さく悲鳴をあげた。
「……そうだね。そろそろ傭兵稼業からは足を洗って、この街でおとなしくしててほしいな」
 うまく笑えているだろうか。私は上手に嘘をつけただろうか。
「でなきゃユレンも心配で嫁にも行けないだろ」
「もう、まだそんな年じゃないわ」
 アイゼンに拾われて十年。私は十六歳になった。
 嫁になんて、行くつもりはなかった。アイゼンのそばにいたかった。アイゼンのそばにいられるのなら、どんな関係でもよかった。それが養父と養女むすめという不毛な関係であっても、彼からそれ以上の愛が与えられることはないと知っていても。

 明くる朝、彼は、ライアン・オネストはやってきた。
「よろしくお願いします、ライアンさま」
「さまなんて、やめてください、ただの傭兵に」
 だって、彼はあまり傭兵くさくない。傭兵だなんて嘘じゃないのかと思うくらいに真面目で品があって、どこかの貴族のお坊ちゃんだと言われても納得できる。しかし傭兵だと言うときの彼に、嘘はなかった。
「私の知る傭兵は、下品な酒飲みな荒くれ者ばかりなもので」
「ああそうですね、間違ってない」
 ふ、と彼は思わずといった風に笑った。
「けれどライアンさまは、違う気がしたものですから」
「あのアイゼン・リューグナーの愛娘に失礼があっては、殺されてしまいますから」
「大袈裟ですね」
「いえいえ本当に」
 くすくすと笑う私に彼は大真面目な顔で答えた。
「ですからただのライアンとお呼びください、ユレン嬢?」
「やだ、やめてくださいライアンさま、そんなお嬢様みたいな」
「では貴女がライアンと呼んでくださったら、私もただのユレンと」
 どうやら彼は、私が思っていたよりも策士らしい。
「……わかりました。改めてよろしくお願いします、ライアン」
「こちらこそ、ユレン」
 そうして差し出された手を握る。ごつごつした、剣を握る手だ。アイゼンの手と似ていた。




 私の育った砦の街、ヴァンデルングを出て北東へ半月ほどの国境地帯。隣国とのご競り合いが絶えず、アイゼンが何度も行ったことのある場所が目的地だった。
 ライアンは印象通りの好青年で、体力はあれど旅慣れない私を気にかけてくれた。護衛の仕事だと言われればそれまでである。
 移動は、馬車を乗り継いだ。私の灰色の髪と、ライアンの赤毛ではあまりにも似ていないので、夫婦ということにして誤魔化した。ライアンがなんともいえない表情をしていた。彼がアイゼンのように濃い灰色の髪をしていたなら、兄妹で通ったかもしれないけれど、さすがに無理がある。
 幸いにも馬車に酔うことはなかったけれど、特にやることもないと暇で仕方ない。
「旦那さんは奥さんが大事でしょうがないのねぇ」
 ライアンの肩にもたれて眠っていると、カラカラと笑う高い声が聞こえた。遠方に嫁いだ娘を訪ねるのだと言っていた女性の声だった。
「……そうですね、とても大事ですよ」
 すぐそばで聞こえるライアンの声が、しとしとと降る雨のように落ちてくる。
「大事な、預かり物ですから」
 その声は、声というにはあまりにも小さく、おそらく会話を楽しんでいる女性の耳には届いていない。ライアンはきっと、私が聞いていることすら気づいていない、独白だった。
 預かったところで、預けた主はもういないくせに。
 犬猫じゃあるまいし、アイゼンもライアンも実に軽率で適当で、それでいて過保護だ。私は何も出来ない子どもではない。アイゼンの留守の間しっかりと家を管理できるくらいには、一丁前の大人のつもりだ。
 目を閉じていてもじわりと涙が滲んだ。涙が溢れないように、と私は睡魔を呼び寄せる。
「……ユレン、起きたんですか?」
 身じろいした私に気づいたのだろう、ライアンが低くやさしい声音で問うてくる。
 私は寝たふりを決め込んで、返事をしなかった。


 ライアンの青い瞳はいつだって正直だった。晴れた青空を映したようなそれが、アイゼンの話題になるたびに雲に覆われるように翳る。
 それでも私と彼の共通の話題といえばアイゼンのことくらいで、彼は瞳を曇らせたままそれを嘘で覆い隠して会話に興ずる。
「アイゼン殿は酔うといつも貴女のことを話してましたよ」
 普段はだんまりでしたけどね、とライアンば笑う。
「やだ。ろくでもないことしか話してないんでしょう」
 喧嘩っ早くて街の男の子たちにも負けなかったとか……それは今でもか。
「小さい頃は仕事のたびに大泣きされたとか?」
「もうアイゼンったら!」
 それは本当に十歳くらいまでの話だ。頬を膨らませてアイゼンへの文句を言うと、ライアンは青い瞳を曇らせて苦笑した。
「……かわいくてしかたない、出来た養女だと」
 ライアンは何を思い出しているのだろうか。アイゼンの最期を彼はどこまで知っているんだろうか。死した彼の、心残りともいえる私を前に、何を思うのだろう。
「親バカでしょう、街でも散々言われてるわ」
 十三歳のときだったか、男の子から花をもらった。私はその意味に気づかなかったけれど、アイゼンはわかったのだろう。さりげなくその少年に俺より強い男じゃねぇとユレンはやらんぞ、なんて釘をさしていたらしい。恥ずかしいことこの上ない。アイゼンの前科は恥ずかしいこのほかにもいくつもある。
「それだけ大切なんですよ、貴女が」
「……知ってます」
 知っている。痛いほどに。
「アイゼンはいつだってそうなんです」
 ただ縁があって拾っただけの子どもを、本当の娘のようにここまで育ててくれた。独身のくせに。
「……養父とは、呼ばないんですね」
「ええ。昔から。家族なんですけど、どうにも養父というのは違和感があって」
 私には少しずつ薄れてきてしまっているものの、死んでしまった実の両親の記憶がしっかりとある。だからこそ養父と呼ぶには抵抗もあった。
 家族だと思っている。けれど、養父と思ったことは一度もない。それが、アイゼンには喜ばれない恋心も影響していた。
 ライアンはやさしい目で私を見下ろす。きっと私のひそやかな恋に彼は気づいているのだろう。言葉にしないでいてくれるのは、紛れもなく彼のやさしさだった。
 アイゼンだって気づいていた。私の愛情が、養父に向けるものではなかったことに。けれど彼はよい大人らしく気づかないふりをして、私を養女として扱った。誰かが告げたら壊れてしまう恋だった。
 けれどもう、告げてもよいだろうか。
 ――好きよアイゼン、ずっと好きだったのよ。
 告げたところで、声は届かないのだから。


 北東へ進めば進むほど、大地は荒れ果てたものへと変貌していく。砂と岩壁ばかりが続く光景を、アイゼンは何度見てきたのだろう。
 その場所が近づいていくたびに心臓が握りつぶされるような痛みを訴えてきた。やさしい嘘が終わる。そのときがくることを知っていながら、私は自らとどめを刺すことができずに気づかないふりをし続けた。
 私の心臓が痛むように、ライアンはやさしい笑顔を失っていく。時折苦しげに俯いては唇を噛み締めていた。
 やさしいライアン。嘘つきなライアン。そんな彼を見るたびに心のどこかでひとりではないのだとほっとしている私は、なんて罪深いのだろう。
 最後の乗り合い馬車を降りる。
 荒れた大地に築かれたその街は、どこかヴァンデルングの街と似ていた。行き交う人々のなかには傭兵も多く、戦いの気配が故郷の街よりいくぶんか強い。
「ユレン」
 馬車を降りてからずっと黙り込んだままだったライアンが、苦しげに私を呼ぶ。お願いだからそんなに苦しまないで欲しい。彼が罪悪感を抱く理由などないのだ。
「はい、ライアン」
 どうしたんだ、などと馬鹿げた言葉はかけない。彼はなお言葉を探すように乾いた地面を見下ろした。
「俺は、貴女に謝らなくてはいけないのことがあります」
 丁寧に紡がれた懺悔の言葉に、私は微笑んだ。
「アイゼン殿は……」
 アイゼン殿は、とその先を言葉にできずに彼は私を見つめた。誠実そうな青い瞳は、嘘を厭うている。
 ――ああ、もういいじゃないか。
 このやさしい青年を、これ以上苦しませることはない。私は知っていたのだから。

「アイゼンは、いないんでしょう?」

 私は微笑みを浮かべたまま、静かに問うた。乾いた風が吹き抜ける。平然を装うつもりだったけれど、私の表情はおそらく泣き出す前の子どもと同じような顔をしているに違いない。眦が熱を持ち、じわりと涙が滲んでくる。
「アイゼンは、死んだんでしょう?」
 どうして、とライアンが唇を震わせた。
「謝るのは私のほうなんです、ライアン。私ははじめから貴方の嘘に気づいていた」
 驚きでライアンの瞳が見開かれる。その瞳に嘘の影なんて微塵なくて、そのことにまた悲しくなった。私の言葉を否定してほしい。そんなわずかな望みさえ潰える。
「アイゼンは、私にいろんなことを教えました。単純な読み書きから自衛の術も、野営の仕方も、人の表情の読み方……人殺しの術以外は、なんでも」
 だから、と声は震えた。
「貴方が嘘をついていると、すぐわかっていたんです」
 それはきっと、私のためのやさしい嘘。
 ライアンは観念したように、目を伏せて口を開いた。
「……アイゼン殿の、遺言でした」
 ユレン・リューグナーに、俺の死は伝えるな。遺品を届けてくれるな。彼女をここへ連れて来い、それだけで十分だから、と。
 アイゼンはほんとうによくわかっている。おそらく私は、見知らぬ誰かにアイゼンの死を告げられても信じることはなかっただろう。たとえ、その人の目に嘘はなくても。遺品があっても、何があっても、私は自分が確かめるまで信じない。
 だからこんな捻くれた方法をとった。
「……お願いがあるんです、ライアン」
 瞳は焼けるように熱いのに、涙は溢れない。
「アイゼンの最期の場所へ、連れて行ってくれませんか」
 そこは、ここからそう遠くないのだろう。ライアンはわずかに迷いを見せたあとで、腰の剣を握りながら確かに頷いた。
「……街から少し歩いた、岩壁です」
 撤退の途中、しんがりを務めたのはアイゼンと彼だったという。
 最期の様子をぽつりぽつりと話す彼から離れないようにと気をつけながら、私は道端に咲く花を摘み取っていた。このような土地にも花は咲くのだ。
「頭上から落石がありました。おそらくは敵によるもので、すぐに背後からも奇襲があった」
 落ちてきた岩を避けて応戦した、けれど不意を突かれ前方に進んだ仲間とも分断され、どう考えても不利だった。けれど彼らは強かった。地理を利用して敵を崖の下へと落とし、斬り伏せ、どうにかその場を切り抜けた。
「アイゼン殿は、頭から血を流し、肩を矢で射られ腹を斬られ、立って剣を握っているのが不思議なくらいでした」
 ぷち、と花を手折る。
「お互いを支えにして街を目指しました。けれどアイゼン殿はそこで」

『ああ、悪いな。もう無理だ』

 そう言って、笑ったという。
 ライアンが足を止めた。足を滑らせたら崖の下に落ちてしまうだろうという、その場所で、ひとつの岩を前にして。
「……ここです」
 何もない場所だった。

『なぁ、若造。看取ってくれるついでにひとつ、頼まれてくれないか』

『ヴァンデルングの砦の街にいる俺の養女に、俺の死は、伝えてくれるな。アレは頑固でな、誰が言ったって、信じねぇだろうよ。だから……』

 ここに、連れてきてくれ。
 理由はなんでもいい。俺に頼まれたと、俺が待っているからと、適当な嘘をついて連れてきてくれ。それで十分だ。それであの頑固娘にもわかるだろう。

 アイゼンの声が聞こえるようだった。
 摘み取った花を握り締めて、唇を噛む。血の味がした。
「――うそつき」
 手を振り上げて、その岩に花を投げつけた。そこにアイゼンがいる気がした。
「かならず帰ってくるって、言ったくせに!!」
 アイゼンはいつも、仕事へ行くたびに約束した。かならず帰るから、いい子で待ってろよ、と。それは幼かった私への約束が見送りのときの決まりごとになって、今まで続いていた。
 かならず帰る。その言葉を信じて見送った。それがいつか嘘になるかもしれないとわかっていながら、アイゼンはこういう生き方しかできないのだと、知っていたから。
 叩きつけられた花が悲しげにひしゃげる。風に攫われて飛んでいったものもあった。
「うぁ、」
 心の中に降り積もった言葉を声にすると、もう止められなかった。涙が溢れて視界が歪む。膝から崩れ落ちるようにして私はその場に泣き崩れた。
 うあああああ、と子どものような泣き声が、うるさくてしかたなかった。



 アイゼンは、その街に埋葬されていた。ライアンがあの場所からひとりで遺体を運んでくれたらしい。大柄なアイゼンを運ぶのはさぞ骨が折れただろう。
 個人の墓ではなく、戦死者の共同墓地だ。たくさんの花が供えられていた。
 そのあとで、ライアンから保管されていたアイゼンの遺品を渡される。
 アイゼンが使っていた大きな剣、かばん、最期まで身につけていたというお守り。
「……これ、まだ持っていたんだ」
 そのお守りは、何年か前に私が作ったものだった。もうとっくにぼろぼろになって捨てたか、失くしただろうと思っていた。
「戦場ではいつも、つけてましたよ」
「……そう」
 そんな素振りはちっとも見せていなかったくせに、と私は苦笑する。
「これから、どうするおつもりですか」
 ライアンの問いに、私は手のひらに乗せたお守りに目を落として口を開く。
「ヴァンデルングに戻って、あの街で暮らします。アイゼンが遺してくれた家もありますし、もうあそこは私の故郷だから」
 この街へ移り住む、という選択肢も浮かんだけれど、ヴァンデルングにはアイゼンとの思い出がたくさんある。そうして年に一度、ここへきてアイゼンの墓参りでもしよう。
「送りますよ、ヴァンデルングまで」
「そんな……もう十分です」
 アイゼンの死に際の戯言に付き合ってこんな面倒なことを引き受けてくれただけでも頭が上がらないのに、これ以上迷惑はかけられない。ここまでの道中だって乗り合い馬車を経由していて危険なんて呼べるものはなかった。
「貴女がヴァンデルングへ帰るというのなら、送り届けるまでが俺の仕事ですから」
 そう言われてしまうと、私も抵抗できない。
「……ほんとうに、過保護なんだから」
 ライアンのことではない。
 もちろんそれは、私の養父のことである。
「私は、ずっとアイゼンが好きだったんです」
 家族に対する好意などではない。私は、ずっと、養父である彼に恋をしていた。盲目的な恋だった。叶うことのない恋だった。
「……ずっと、好きだったの……」
 アイゼンから与えられる愛情が、私と同じものでなくてもよかった。アイゼンは私の愚かな恋に気づいていたのだろう。だからきっと、家をあけることが多い傭兵稼業を続けていた。
 盲目的な恋だった。
 叶わない恋だった。
 傍迷惑な恋だった。
 私は声をあげることもできずに俯いて涙を落とした。
「ユレン」
 ライアンの手が私の?にぎこちなく触れる。その指先が流れ落ちた涙の雫をすくいあげた。
「君とアイゼン殿が家族であった過去は変わらない。永遠に。アイゼン殿が君に与えた、たくさんのものも、君が抱えて生きていく」
 大きな手のひらが?を包んだ。あたたかいその手が涙で濡れることを、ライアンは厭わなかった。
「恋は終わるかもしれない。けれどユレン。君に与えられた愛情は、確かにここにあって、これからも在り続けるんだと思う」
 顔をあげれば、そこにはやさしい笑顔があった。
 愚か者の恋は終わる。初恋が叶わないものであるとおり、花も咲かず、実もつけずに。
 それど私とアイゼンが家族として過ごしたものは確かにあって、彼が与えてくれた愛情はしっかりと私に刻まれている。

 ――ねぇ、アイゼン。私はいつか素直に貴方を養父と呼べるかしら。







 がたがたと揺れる馬車のなかは、相変わらず寝るか世間話をするくらいしかやることがない。
「あら、奥さんは寝ちゃったのかしら」
「みたいです、旅慣れてないので疲れたのかもしれません」
 くすりと笑う声と一緒に、髪を撫でられる。心地よいそれに、浮かび上がった意識はまたすぐに眠りへと落ちていった。
「かわいい奥さんね」
「……ええ、ほんとうに」
 あらあら惚気られちゃったわ、と笑う声が、夢現に聞こえた気がした。

「ユレン、起きてください」

 耳をくすぐる低い声に呼び起こされる。
「もうすぐヴァンデルングですよ」
 すっかりライアンの肩を枕にするのが癖になっていたらしい。私は眠い目をこすって、ふぁ、と欠伸をする。そうしているうちに馬車は止まった。
 見えるのは砦の街ヴァンデルング。私の故郷だ。
「……ライアンは、これからどうするの? またどこかで傭兵として雇われるの?」
 ライアンから荷物を受け取りながら、名残惜しさを誤魔化すように話題を持ち出すが、選択を間違えている気がする。これではまるきり別れ際の会話だ。
「いや、ふらふらするのはやめますよ」
「その口ぶりだと今後の予定は決まっているみたいだけど」
「ええ、このヴァンデルングで働きます。砦の騎士団の一員として」
 ――少し前から、誘われていたので。
 ライアンはそう言って笑った。私は目を丸くして、やはり彼はなかなかあなどれないなと思う。
「だからユレン。休日には街を案内してくれませんか。お茶くらいは奢りますよ」
「……それならライアン。うちに遊びに来て」
 くすりと笑いながら告げる私に、ライアンは「え?」と驚いていた。

「……だって貴方、私の淹れたコーヒーをまだ飲んでくれていないじゃない」

 コーヒーを淹れるのは、ほんの少し得意なのだ。
 だからきっと彼も気に入ってくれるだろう。
 思い出のつまった家に、ひとりきりはまだ寂しい。たまの来客くらい、期待してもアイゼンは怒ったりしないでしょう?
 ねぇ、だって。貴方が認めた人なんだから。

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