魔法伯爵の娘
うたかた(2)
美味いもん食わせてやるって言ったくせに。
ガルが真っ先に浮かんだのはそんな感想だった。
騎士たちに連れて行かれたのはいわゆる花街で、今ガルはとある娼館の大部屋でたくさんの食事を並べながら女性たちに囲まれている。
「……こういう店って飯も食えるんだ」
ぼそり、とガルは呟いた。
利用したことなんてないけど、なんとなくそういうことのための部屋があるだけなのだと思っていた。
「いろいろだな。ここは一階が酒場も兼ねてるから」
酒を飲みながら隣にいた騎士が答える。どうやら独り言が聞こえていたらしい。
「いい女の酌で酒を楽しむのも良し、そういう気分になったら二階へどうぞってやつ。おまえも気に入った子いるなら二階に行ってもいいぞ?」
ここは奢りって言ったしな、と騎士はにやにやと笑うが、正直大きなお世話だ。
「なんでだよ……」
小一時間ほど経った今では、こっそりと男女二人で部屋を抜けていくのを見かけるようになってきたのでつまりそういうことなのだろう。
勉強ってこういうことかよ、とガルは内心で呆れながら料理を食べていた。たくさんの料理にはあまり手をつけられていないまま、酒ばかりが消費されていく。
マギヴィルの男子寮でもそういう話題で盛り上がることはある。それはもちろん年頃の少年の集団なのだから当然なのだが、ガルは率先して会話に加わることはなかった。耳がいいから内容が嫌でも聞こえてくるだけだ。
「やっぱさ、男はリードできないといろいろ大変だろ? これも勉強だからさ」
気にしないで楽しめよ、と酔って陽気になった他の騎士がガルに笑いながら話しかけてくる。酒くさ、という呟きをガルはどうにか飲み込んだ。
気にするって、何を気にしろと言うんだろうか。いかがわしいところへ連れてきたのはそっちだろうに。
「なぁに? 君、好きな子でもいるの?」
黒髪の女性がガルの傍に寄ってきて話に加わる。青いドレスは肩が剥き出しでガルはなんだか寒そうだな、と思った。
「こいつに仲良い子がいてさぁ、でもなかなか進展しなさそうだなぁ」
だんまりを決め込んでいるガルにはお構いなしに騎士はペラペラと楽しげにガルのことを話している。仲良い子、というのがアイザのことなのはガルにもすぐわかった。むしろそれ以外に心当たりがない。
周りは何かとガルとアイザにかまうけれど、ガルにはそれがいまいち理解できなかった。タシアンたちくらいの距離感が一番心地いい。
並べられた料理は不味くないけど、美味くもない。冷めてきたのでむしろ少し不味くなってきたかもしれない。
この部屋どころか店に入った時から香水の匂いがキツくて随分前から鼻が曲がりそうだし、着飾った女性たちには特になんの感情も湧いてこない。
ヒューあたりに娼館に行ったんだと話したら羨ましがるんだろうな、とぼんやりと思った。話す気もないけれど。
だってガルは、ちっとも楽しくない。
「その子はどんな子なの?」
「黒髪……いや、灰色か? んで目は青くて、細めの綺麗な子だよ」
話題の中心はガルなのに、話しているのはもっぱら騎士と女性だ。それなのに盛り上がっているのだから不思議なものである。
ていうかこいつ、アイザのこと綺麗って思ってるのか、とガルはそちらが気になった。
「あら、もしかしてそれなら私と似ている?」
青いドレスの女性はうれしそうに微笑む。女性の瞳も青かった。
きっと何気なく聞いただけなのだろう。もしかしたら、女性はガルに興味があったのかもしれないけれど。
「ああ、似てるかも――」
「似てないよ」
騎士の声を遮る。それは反射のようなものだった。
似てない。
似ているはずがない。
アイザの目はもっと深い、深い青だ。髪は、真っ黒ではなくて、青みがかった鈍いグレーだ。日に透けるといつもより明るい色に見えたりしてすごく不思議な髪の色。本人は地味な色だと笑うけど、ガルはその金属のような鋭さと艶やかさのある髪をとても綺麗だと思う。
それに、アイザからは香水の匂いなんてしない。きちんと丁寧に洗濯された清潔な服の匂いと、薬草かなにかの匂い。時折、本やインクの匂いがしみついている。手は少し荒れていることが多いけど、本人はけっこうそういうところに無頓着だ。
身体は細く、けれどしなやかな筋肉がついていて、背は少女にしては高めだ。すらりとした身体の線が頼りなさげなのに、すっと芯が通っているかのように姿勢がいい。
「……似てない」
口にすると、いてもたってもいられなくなる。何かにはやし立てられるようにガルは料理に伸ばしていた手を止める。
会いたい。
顔が見たい。
声が聞きたい。
できることなら触れたい。
なんで俺はこんなとこにいるんだろ、アイザもいないのに。そんな気持ちがいっぱいになって、ガルは立ち上がった。
「帰る」
端的に告げると、ガルは迷いなく出口を目指した。女性たちはぽかんと呆気に取られていて、止める気配はない。
「へ? お、おい――」
一拍後に、ようやく声をかけてくる騎士を振り切って、ガルは部屋を出た。奢りだと言っていたんだから、ガルがこのまま出ていってもなんの問題もない。
――まぁ、こんな気はしていたけどなぁ。
そんな風に苦笑する声がかすかにガルの耳に届いた。分かっていたなら連れて来ないで欲しかった。
「……ああでも、これが勉強ってことか」
知らないことを知る。それは紛れもなく学びのひとつだろう。
花街の雰囲気は好きじゃない。
好きではないと、知った。来るのはおそらく今回が最初で最後なのだと思う。
足早に城へと戻りながらガルはただひたすらにアイザのことを考えていた。会いたいと思ったらもうたまらなかった。歩いていた速度は次第に速く、そのうちガルは走っていた。
全速力で走っていても不思議と疲れは感じない。通用門が見えて、本来ならばそのまま騎士団宿舎に戻るべきなのだろうけれど、ガルの足は城へと向かっていた。
アイザの部屋は知っている。つい庭から行こうとして、それではきっと不審者と間違われるかもしれないと冷静に頭が働いた。衛兵につまみ出されるのはごめんだ。
逸る気持ちを堪えながら、きちんと廊下を歩いて、アイザの部屋の扉の前に立つ。
まだ起きているよな、と思いながらノックをした。コンコン、というどこか心細い音が響くと、部屋の向こうで「はい?」とアイザの声がした。たったそれだけの声に、なんだかすごく安心した。
「……アイザ?」
呼びかけると、すぐに扉に駆け寄ってくる気配がある。こんな夜の訪問だ。アイザのことだから誰だと警戒していたのかもしれない。
「ガル? 帰ってきたのか」
扉が開いた瞬間、アイザの姿が目に入る。
と、同時にガルは言葉を失い、硬直した。
アイザの着ているものは、私服ではなかった。既に寝支度を始めていたのだろう、白い夜着に着替えていたのだ。
「ね、寝てた?」
動揺しつつどうにか声を捻り出す。時間的には寝るには早い。けれど寝支度を始めていてもおかしくはないだろう。
アイザの着ている白い夜着は生地がしっかりしているが、白く細い首筋と鎖骨は露わになっている。袖まであるし、ゆったりしているし、動揺することなんてないはずだ。先ほどの青いドレスの女性のほうがよほど露出は多かった。
「いや? 本を読んでた」
アイザが首を傾げると、濃灰の髪がさらりと肩に落ちた。湯上がりなのか、アイザからはほのかに石鹸の香りがする。それはまったく不快感はなく、むしろ何故かたまらなく落ち着かなくさせられる。
「何か用があったんだろ? 入る?」
「いや、用っていうか……」
ガルは口籠りながら、なんとなく一歩後ずさった。
用件はない。ないのだ。
ただ会いたかった。どうしてもアイザに会いたくなった。
会えたら途端に、なんだか落ち着かなくなったけれど、それでもこうしているだけで満たされていくような感覚は確かにあって、それがまたガルにはよくわからなかった。
そわそわと落ち着かない。地に足がついていない気がする。今すぐ逃げ出したいような気持ちもあるのに、このまましばらく一緒にいたいとも思う。
「ガル?」
名前を呼ばれただけで体温が上がってくる。
こちらを見つめる青い瞳にあるのは友愛と信頼だけで、それはとても誇らしいのにそれでは足りないと叫ぶ心があった。
「顔、見に来ただけだから、戻る」
「え?」
どうか火照る顔が夜の暗がりで彼女には見えないといい。アイザは自分のように夜目が効くわけではないから、きっと大丈夫だと言い聞かせた。
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