魔法伯爵の娘
うたかた(3)
戴冠式の翌日は、どこか昨日の熱気を残したままじわりじわりと日常に戻ろうとしている。そんな雰囲気だった。
着せ替え人形になる日々も終わったはずなのだが、アイザが目を覚ますと顔も覚えた侍女たちがドレスを手ににっこりと微笑みかけてきた。
「……えーっと……」
持ってきた私服で十分だと固辞すべきか。それとも王城に滞在している間くらいは我慢して着せ替え人形を続けるべきか。アイザはしばし悩んだ。
「この数日間でアイザ様の好みも妥協点も学びました。こちらのドレスならよろしいでしょう?」
そう言って用意されていたのは水色のドレスだ。それも、アイザにしてみれば可愛らしい色に含まれるのだが、飾りのレースが濃紺だからだろうか、思っているより甘さはない。
(た、確かに妥協できなくもないところをついてくるな……)
「でも午後には薬草園の手伝いが……」
「その時はその時でお召換えを。さ、のんびりしていると朝が終わりますよ」
結局、アイザの抵抗は虚しく半ば強引に着替えさせられる。
滞在の目的だった戴冠式も終わったので、アイザとガルが城で過ごすのも残りわずかだ。予定としては明後日には王都を経ち、ガルの村やアイザの故郷の街に立ち寄って、一週間ほど余裕を持ってマギヴィル学園に帰る予定だ。道中何があるかわからないから、日程は余裕をもたせている。
(イスラさんに挨拶したいなぁ。家には父さんの蔵書を取りに行くだけだから、それほど時間はかからないと思うけど……)
ああでも、騎士団が時折様子を見てくれているとはいえ、家の掃除はしておきたい。一応は赤ん坊の頃から過ごした場所だ。アイザにも愛着はある。
バスケットを手に訓練場まで向かいながら、そういえばとアイザは独り言のようにルーに話しかけた。傍目には独り言そのものだ。
「昨日の夜のガルはなんだったんだろうな?」
「……」
返ってきたのは沈黙と、どこか呆れるような眼差しだ。動物(ルーは正しくは精霊だけど)の表情はよく分からないなんて言う人がいるが、こんなにわかりやすいのに、とアイザは思う。
「……言いたいことがあるならはっきり言ってくれるほうがうれしいんだけど」
「私が言うべきことではないが、少年は少し不憫だな」
「な、なんで……?」
アイザはガルを邪険に扱ったことなんてないのに。昨日だって、部屋に入るかと聞いたのにガルは逃げるように去って行った。
(わたし、何かしたかな……? 覚えがないんだけど)
今もアイザはガルに会うために訓練場に向かっている。
ドレスを着たら恒例のイアランに挨拶に行くのも先程済ませたし、午後の薬草園の手伝いまで暇なのだ。お昼でも一緒にどうだろうと、サンドイッチなどを用意してもらってバスケットに詰めてもらった。
剣戟の音と、男性たちの声が聞こえてくる。このあたりまで来ると、女官や侍女を含めて女性の姿は見えなくなる。おかげでドレス姿のアイザは意外と目立つのだ。
邪魔にならないように、と隅に寄ってアイザはガルを見た。相変わらず、彼の赤い髪はすぐに見つかる。
剣を構えていたガルが後方に飛ばされた。騎士団員に比べてまだ体重が軽いガルはよく吹き飛ばされるようだ。しかしガルはすぐに剣を握り直し、体勢を立て直すと相手の騎士に飛びかかる。
こうして稽古を繰り返しながら、ガルの動きにはどんどん無駄がなくなってきた。避ける時のほんのわずかな動作にも慣れと経験が染み付いてきたのだと感じさせる。
強くなりたい、と拳を握りしめていた彼は、おそらく今間違いなく急成長している。
訓練も一段落というところで、訓練相手だった騎士がアイザの方を指差した。声を出すとガルはすぐに気づくからアイザはずっと静かにしていたのだ。
「アイザ!」
こちらを見てぱっと明るくなる顔はいつも通りだ。昨夜のあれは本当にただ顔を見に来ただけなのかもしれない、とアイザは少しほっとした。
「どうした?」
「お昼を一緒に食べようと思って。用意してもらったんだ」
そう言いながら持ってきていたバスケットを持ち上げて見せる。
「ちょうど今から休憩だから、ここで――」
ガルが嬉しそうにバスケットを覗き込みながら、不自然に言葉を途切らせる。
(気のせいかな……なんか周りの人たちがにやにやしてる……)
いつもは騒がしい訓練場が、妙に静まり返っているし、何やら視線が集まっているような気もする。
「……ここじゃないとこで食べよう。汗臭いし。おっさん臭いし」
「聞こえてんぞ! おっさん臭い言うな!」
「ほんとのことだろ!」
聞き捨てならんとガルに向かって騒ぐ騎士に、ガルも負けじと言い返した。
しかし相手にしていたら休憩時間がなくなると思ったのか、ガルはアイザの手からバスケットを受け取って逃げるように訓練場から飛び出した。
人がいないところ、ということで二人は薬草園まで逃げてきた。少なくともここに騎士はやって来ない。
「ここなら静かに食べられるだろ……」
どこかぐったりとした様子でガルが呟いた。
「それなら向こうのベンチに行こう」
「ん。……あれ?」
ふと、ガルはアイザを見て違和感を覚えた。
視線が、違う。
「アイザ、背縮んだ?」
「馬鹿、そんなわけないだろ。おまえが伸びたんだ」
以前はちょうど同じくらいの身長だったのに、今はわずかにガルの方が高い。そのため、少しだけアイザを見下ろすようになったいた。
「今日は踵の低い靴だからな」
ドレスの時は少し踵が高い靴を履いていたから、今まで気づかなかったのだろう。今もドレスを着ているけれど、戴冠式も終わったことだし歩きにくい靴はやめたのだ。
「わたしはもう伸びないだろうけど、ガルはもっと背が高くなるだろうな」
アイザはそう言いながら、ベンチに腰を下ろした。バスケットを膝に乗せて、飲み物を取り出している。
その様子をガルはじぃっと見下ろしていた。
「ガル?」
座らないのか? とアイザはガルを見上げた。
「あ、いや、なんか……アイザって女の子なんだなって思って」
「なんだよそれ。そりゃ、女の子らしい振る舞いなんてできないし可愛げもないけど」
「アイザは可愛いよ」
少しいじけたように零すアイザの言葉に重ねるようにガルは言った。アイザが自分の耳を疑う暇も与えずに、繰り返す。
「アイザは一番可愛い」
「そ、れは……いくらなんでも、言い過ぎだろ」
「だって俺、別にアイザ以外の人のこと可愛いって思わないし」
それは昨夜、十分思い知ったことだ。たとえばどんな傾国の美女であっても、きっとガルの心は揺るがない。
その感情の名前を、未だにガルは知らずにいるけれど。
「――おや、ここにいたのか」
「ファリスさん」
ちょうど昼食を食べ終えたところで、ファリスがやって来た。彼も昼の休憩だったのかもしれない。
「着替えてくるので、そのあと手伝いますね」
このあとはアイザも薬草園の手伝いだ。とはいえ一度東の離宮に戻ってこの綺麗なドレスから普段着に着替える必要がある。
「そうだね、せっかくのドレスが汚れてしまうだろうから」
「戴冠式も終わったのに、何故かまだドレスを着せられるんで……」
疲れた顔のアイザに、ファリスは目を細めた。微笑ましさのあとに、どこか憐憫の色が宿る。
「戴冠式も無事に終わって良かった」
無事に、という言葉がどこか重みがあって、アイザは首を傾げた。
懸念するようなことは、特になかったと思う。騒動らしい騒動もなかった。少なくとも、アイザが王城にやってきてからの数日間は戴冠式へ向けた慌ただしさはあれど、問題など起きていなかったように思う。
「……女王陛下の体調があまり良くないからね。よく戴冠式を無事に終えられたものだ」
それは、だいぶ、言葉を選んだのだとわかる。
驚きは、声にすらならなかった。
どこかで、そんな気がしていたからかもしれない。痩せた身体を思い出して、アイザはおずおずと口を開いた。
「……体調が、悪いんですか」
問いかける声は重く、わずかに震えていた。
ファリスはアイザを一瞥し、そっと目を伏せる。
「心が病に侵されれば、身体も弱っていくものだ。数年前から体調を崩されていたが、少し前からかなり具合が悪いようでね。……だからこそ陛下も即位を急がれたのだろう」
イアランの即位は、もとはあと二年は先の予定だったのだという。
地盤をしっかり固めた上での即位を目指していた。けれどそうは言っているわけにもいかず、予定を早めたと。
予定を早めなければならなかったのは。
「……父さんが、死んだからですか」
リュース・ルイスが死に、女王を繋ぎ止めていたものがなくなったから。女王の命の灯火が、弱まってしまったから。
アイザの問いに、ファリスはゆるゆると首を横に振った。いいや、とやさしい声音で否定される。
「……天命だと思いなさい」
それは、それで。
その灯火が消えることは避けられないのだと、言われているような、気がした。
「……アイザ、大丈夫か?」
心配するように投げかけられた問いに、アイザはハッと意識を持ち上げた。
着替えるために一度薬草園をあとにして、部屋まで戻ってきたところだ。ガルは心配してついてきたのだろう。
(考え込むとずるずると落ち込んでいくの、悪い癖だな……)
金色の瞳が、じっとこちらを見つめている。
見透かすようなその瞳に、本当は、不安のままに泣き出してしまいたくなる。幼子のように素直に、言い表せない感情を爆発させて叫んでしまいたい。
けれど、アイザはもう子どもでもないし、ガルはアイザの母親でも父親でもない。
(……守られたいわけでも、依存したいわけでもない)
ただ対等でいたいだけだ。
友人とは、隣で並び立つ者とは、そういうものだと思うから。だからアイザは寄りかかりたくない。
アイザは笑った。きっと、とても笑顔には見えないような変な顔だったのかもしれないけれど、それでも笑った。
「大丈夫だよ」
途端に、ガルは苦々しい表情を浮かべる。
ああきっと、上手く笑えていないんだ、とアイザは思った。そうだろうとはわかっていたけれど、ガルの反応を目の当たりにするとわかりやすい。
「……本当に、大丈夫だよ」
このままだとアイザに張り付いて離れなくなりそうなガルに、重ねて告げた。
(ああ、でも)
手に触れたい。
手を握って欲しい。
そんなこと思うのは初めてかもしれない。いつだって彼は、アイザが望む前に手を差し伸べていたから。
でもガルは何かを言いたげに口を開いて、迷った末に口を閉ざして。いつも迷いないくらいまっすぐな彼には珍しく、困ったように目線を落として。
「……わかった」
結局、アイザに触れることなく、ガルはアイザを部屋まで送り届けると訓練場へと戻って行った。
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