魔法伯爵の娘

うたかた(5)


 タシアンが騎士団長室へ戻ると、ガルがひょっこりと顔を出した。

「アイザ、大丈夫だった?」
「大丈夫っていうのは?」
 意地が悪いと思いながらもタシアンは素直に答えなかった。ガルはその意地悪さに気づいてむすっと眉を寄せる。
「……泣きそうな顔していたくせに我慢していたから」
「そうか」
 ――泣きそうな顔を、したのか。
 アイザがタシアンのもとにやって来たときには、何もかも整理を終えて表情に出すようなことはあまりなかった。困惑、不安。そんなあたりは何度も見て取れたけれど、涙の気配はなかったと思う。
「大丈夫かどうかは、俺にもわからない。ただ覚悟は決めているって顔をしていたな」
「覚悟?」
「ああ。ところでアイザは二、三日滞在が伸びるぞ。おまえはどうする」
「え? アイザが残るなら俺も残るけど」
 迷いなくあっさりと答えが返ってきて、タシアンも呆れるしかなかった。
「少しは迷えよ……村に挨拶に行くんだろ」
「まぁ、ほら、それはまた今度でもいいし」
「おまえな――」
 今度といっても次に帰国できるのはいつになるかわからない。来年の長期休暇のタイミングになれば、一年以上先のことになるのだ。それをあまりにも軽く「また今度」などと言うものだから、タシアンも眉を寄せて説教でもすべきかと口を開いた。
「育ててくれた人たちはいるけど、俺は別に親兄弟がいるわけじゃないからさ」
 ガルは笑っていたけれど、タシアンは思わず何も言えなかった。
 同情や憐れみなどはない。目の前の少年から、天涯孤独などという言葉は連想できない。ガルはいつだって底抜けに明るくて、ひとりなんて似合わない顔をしているから。
 けれどそれは、ひとりでいることが――ひとりでいたことが当たり前過ぎて、ひとりでいることに何も感じなくなってしまったかのように見えて。
 タシアンは無言でくしゃりとガルの頭を乱暴に撫でる。
「うわっなんだよ急に」
「別に」
 慰めを必要としていない相手に的外れなことを言うつもりはない。それでも何もせずにいられなかった――なんて本人に説明してやることもないだろう。
「……アイザ、大丈夫かな」
「おまえも大概心配性だな」
 人のことは言えないくせに、タシアンが呆れたように笑った。しかしガルは、真剣な表情ですっかり夜闇に飲み込まれた外を見つめている。
「アイザは泣きたくても泣かないし、辛くても誰も頼らないから。だいたいのことは勝手に一人で決めてるから、ぼんやりしてるとこっちが気づかないうちにぼろぼろになるんじゃないかなってハラハラしてるよ」
 真っ直ぐすぎるほどに迷いのない瞳に、タシアンは笑みを消した。
「なんていうか、アイザは、誰かが傷つくことは嫌がるくせに自分が傷つくことは気にしないから」
 ああなるほど、と納得する気持ちさえある。アイザが何もかも受け止めたようにみせかけて、実際彼女の中は傷を負っているのかもしれない。
 だとしたら、あまり大丈夫ではないのかもしれないけれど。
「……そうだとしても、それがアイザが選んだ道なら他人がどうこう口出すのはおかしいだろ」
 傷つくことを厭わず何かをなそうとしているのなら、それは立派な覚悟だ。
 タシアンの言葉にガルはむす、と顔を顰める。
 それでも俺は、アイザに傷ついてほしくない。いつもなら口にしていたはずの言葉を飲み込んで、ガルはただ唇を引き結んだ。



 アイザは滞在期間を延ばして、昼間のうちは北の離宮へ顔を出すようになった。
 最初はほんの十分ほど会話するだけで終わった。アイザが行った時には女王は――ウィアは寝台に横になっていて、うつらうつらと夢と現実を行ったり来たりしているところだったのだ。彼女にとっては現実も夢のようなものかもしれない。
 怖々と緊張しながら向かったのに、拍子抜けだった。どんなことを話せばいいだろうと真剣に頭を悩ませたのに、結局は向こうの話に相槌を打つだけで終わった。
(相手は化け物でもないんだから緊張するほうがおかしいのか)
 などと失礼なことを考えて、アイザは気持ちを切り替えることにした。むしろ北の離宮へ通うと決めてからイアランに会っていないので、そちらのほうが怖いかもしれない。
「ガルもなんだか機嫌悪そうだったしなぁ……」
 あの金の目でじぃっとアイザを見て、そのあと小さくため息を吐いていた。
(滞在、勝手に延ばしたの怒ってるのかな……でも嫌なら先に帰ればいいのに)
 ガルには我慢してアイザに付き合う理由なんてない。ガルには王都に留まる目的もないわけだし、先にマギヴィルに帰ってもいいし、村に顔を出しに行ってもいい。けれどそれを口にしたらますます不機嫌になりそうな気がしたのでアイザは黙っている。
 北の離宮の衛兵や女官たちもすぐにアイザの顔を覚えたらしく、アイザが顔を出しても驚かなくなった。
「こんにちは」
「ああ、ちょうど今からお茶にするところだったんですよ」
 お茶に、ということは彼女は起きているらしい。アイザが案内されたのは日当たりのいい部屋で、陽の光が差し込む窓辺で腰掛ける女性がいる。
「アイザ」
 青い瞳がアイザの姿を見つけるとふんわりと和らぐ。その表情に、少し胸が痛いような気もした。しかしアイザは戸惑いを見せないようにと微笑み返す。
「――母さん」
 未だに唇に馴染まないその呼び方を、ごくごく自然に口にする。
 たったそれだけのことで、この人はしあわせそうに笑うから。

 彼女の頭の中の設定で、アイザがマギヴィルに通っているらしい。そのあたりは現実と同じで、長期休暇で帰ってきているということも事実と一緒だ。
 父は、リュースは、多忙であまり会えないのだと愚痴を零していた。もともと研究に没頭することの多い人だったから、あまり違和感はなかった。
 彼女にとっての今が、退位したあとの平穏なのか、そもそも女王になってすらいないのか、それは彼女の口から語られないのでアイザも触れずにいた。同様に、二人の兄のことも話題にはしていない。
「良かった。その服、やっぱりアイザに似合っているわね」
 にこにこと上機嫌で、ウィアは言う。
(やっぱり?)
 アイザが着ているのはイアランが用意したドレスだ。今日はストライプ柄で大きめの襟のある、スミレ色のドレス。少し子供っぽいような気もしたが着てみるとわりと落ち着いていた。
「向こうにも作らせたドレスがあるの。着てみてくれる?」
「え……」
 まさかここでも着せ替え人形になるとは思っておらず、アイザは頬を引き攣らせた。
 連れられて行った部屋の、クローゼットの中はドレスでいっぱいだった。それらはウィアが着るにはサイズも違うしデザインが若々しすぎる。
(なんで……?)
 一日や二日で用意されるような量ではない。
「これなんてどうかしら? 可愛いでしょう?」
 ウィアが選んだのは山吹色のドレスだ。華やかな色にアイザは思わず逃げたくなったが、さすがに元女王を前にしてそんな無礼が許されるとは思えない。
「え、えっと、もう少し落ち着いた色の……」
「駄目よアイザ? 若いうちに着れる色なんて限りあるんだから、今のうちに楽しまないと」
「いや、わたしは別に――」
「これを着せてみて。そうね、髪も結いましょうか」
 ウィアは問答無用で女官に命じる。アイザは隣室に引きずられるようにして連行された。抵抗するのは無駄に体力を使うとアイザも学び始めている。
「……どうしてあんなにドレスがあるんですか」
 大人しく着せ替えられながらアイザが問いかける。
「……体調を崩されてから、お亡くなりになられた王女様の面影が見えているかのように振る舞われることがありまして」
 このドレスも、その王女様のために作らせたものなんです。小さな声で、女官は答えた。
「……」
(王女の、ために)
 女官たちはアイザがその王女の代わりとして可愛がられているのだと思っている。ウィアの愛したリュース・ルイスの娘だから特別なのだろうと。あるいは、もしかしたら、中には真実を知る者もいるのかもしれないけれど。
「ドレスが増えると、殿下……いえ、陛下がまとめて保管されているようで。あまりに多いので、なかには売り払ったものもあるかもしれませんが」
「……えっと、じゃあさっきわたしが着ていたドレスも?」
「ええ、おそらくは」
 見覚えがあるような気もいたします、と女官は笑った。作るまでは楽しそうにあれこれと指示を出すのだが、出来上がると興味を失うらしい。
「王女様は、生きていらっしゃったらあなた様と同じ年頃ですものね」
 そうですね、と適当な相槌を打つことも出来ずにアイザは唇を引き結んだ。まったく上手くならない曖昧な笑みを浮かべて、誤魔化すことばかりが増えていく。

「ああやっぱり! とても似合っているわ!」
 着替え終わりウィアのもとへ戻ると、彼女は少女のように目をキラキラさせて褒めちぎった。
 山吹色のドレスは裾がふんわりとやわらかく広がり、いかにも女の子という感じで、正直アイザは落ち着かない。
「普段からそういう色の服は着ないの?」
「一応公の場などで、未熟な魔法使いは紺色を纏うことになっているんです。私服は違うけど、ドレスなんて普段は着ないから……」
「まぁ、そうなの? では紺色のドレスも作っておかないとね」
 いえ、ドレスはもう十分です。
 と、喉から出かかった言葉をアイザは飲み込んだ。
「リュースも、もう少し家族と過ごす時間を作ってくれればいいのに」
 ティーカップを持ち上げながら、ウィアは愚痴を吐き出している。
「……父さんはそういうところ疎かになる人だから。あんまり没頭しているときは無理やり食事をとらせないと食べることすら忘れるくらい」
「……男の人たちは皆忙しいものね」
 ウィアが眉を下げ、ため息を吐き出しながら呟いた。
(男の人たち……?)
 その言い方にアイザは違和感を覚えた。一般的な男性を指しているのか、それとも特定の誰かなのか。
「別に会いに来てくれなくてもいいけれど、ゆっくり休む時間はあるのかしら」
 ぽつりを呟かれたその言葉は、リュースに向けたものとしては少し変だった。なぜなら彼女が、会いに来てくれなくてもいいなんてリュースに対して思うとは考えられないからだ。
「えっと……」
 自分の中に浮かんだ憶測を聞いてよいものかどうか、アイザは言葉を濁して、ティーカップの中の紅茶に目を落とす。何気ない問いに答えが返ってくるというのは、幸福なことだ。アイザは幼い頃、いや、父が存命であった頃は、わりと幸福な子どもだったのだと思う。
 あれはなに? どうして? なんで? 知りたがりなアイザにリュースは丁寧に答えてくれたし、自分で調べるためのものは惜しみなく与えてくれた。
「アイザがしっかりしているからリュースも助かるわね」
「それは……」
 すぐに肯定できず、アイザは目を伏せる。
(……本当に、わたしがしっかりしていたなら)

 父は。
 かの魔法伯爵は。
 まだ生きていたんじゃないだろうか。

 そんな考えがふつふつと湧いてくる。自分のことに関してはひどく疎かになる人だと誰よりも知っていたのだから、アイザがもっと父を気にかけていたら。
 もしもなんて考えたところでなんの救いにもならないし、現実は決して変わらないけれど、それでも考えずにはいられない。
 今も昔も、リュース・ルイスだけがアイザにとっての家族だったから。


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