魔法伯爵の娘

うたかた(6)


 父の耳元で光を受けて輝くそれが、幼い頃からアイザの羨望の象徴だった。
 王から認められた証。この国最高の魔法使いであると示すもの。世界にただ一つの、宝物だ。
 父を真似て、ピアスをつけられるようにと耳たぶにピアスホールを開けたのは十三歳の時だった。父は珍しく怒ったけれど、根負けするように片方だけ光水晶をアイザに渡したのだ。

『……お守りだと思いなさい』

 おまえがもっと大人になったら、もう片方もあげよう。きっとその頃には、私にはもう必要のないものだから、と。
 片方だけの光水晶は、半人前の証のようでもあったけれど、何より父から認めてもらえたのだと思えた。
 いつか魔法を使ってもいいと言ってもらえるくらいにアイザが大人になったら。そしたらもう片方もくれるのだろう。まだまだ先の話だろうけれど、それでもアイザは誇らしかったのだ。

 いつも耳元で揺れていたはずの片割れの光水晶は、父が死んだ朝、その机の上にあった。

 前の晩にだった。夕飯のあとにアイザはふと父の顔を見て思ったのだ。
「父さん、なんだか顔色悪くないか?」
「そうか?」
 もともと血色のいい人ではないけれど、その日はなんというか、白かった。血の気がないというべきだろうか。
「夜は冷えるんだからちゃんとあたたかくして。また机で寝たりするなよ」
 はいはい、と娘の小言を聞き流すようにして父は書斎に消えた。ああきっと、今日もベッドでは寝ないつもりだな、とアイザは呆れたのだ。

 思えばあの日、あの時、もう少し強く言っていたら。あるいは夜のうちにたった一度でも父の様子を見に行っていたら。
 父はまだ生きていたかもしれない。どれほど命を削っていたかなんてアイザにはわからないけれど、あと半年、あと一年、命の期限を伸ばすことはできたのではないだろうか。
 考えたところでそれはもしもにしかならない。過去は過去のまま、変わることも変えることもできないから過去なのだ。

 父は、朝食の時間になっても起きてこなくて、きっとまた研究に没頭しているのか、そのまま眠ってしまったんだろうと思った。父が時間通りに起きてこないことなんて、いつものことだったのだ。
「父さん、朝ごはんの時間だぞ」
 だからアイザが起こしに行くのもいつものことで、そのあとは無理矢理にでも食事をとらせることまでが日課だった。徹夜したようならそのあとに仮眠をとらせて、机で寝てしまっていたのなら身体が温まるように熱いお茶を淹れる。
 思ったとおり、父は机に突っ伏していた。もういい歳なのに、とアイザは呆れながら歩み寄った。
「父さん」
 いつものように起こそうと肩に触れる。
 冷たかった。
 体温が低い、という類の冷たさではない。ぬくもりを一切宿さない無機物と変わらない温度だった。
 加えて、服越しに感じる肌の感触さえ違った。調理するときの肉と似ている。ぶにぶにとしているそれからは、筋肉の動きや肌の張り、血の巡りといったものは感じられなかった。
「……とう、さん?」
 呼びかけに返答はない。
 その目はかたく閉じられたまま。
 机の上には、耳から外された光水晶があった。傍らにある便箋に、「アイザへ」と。たたそれだけ父の字で綴られていた。

 そのあとの記憶は随分と曖昧で。
 隣の家のおばさんが何かと世話してくれたことはぼんやりと覚えている。
 アイザが現実を受け入れる暇もなく葬儀の準備が進み、父は物言わぬまま棺に入れられ、今は土の中で眠っている。



 目が覚めると、少し肌寒いくらいの朝だというのにじっとりと汗をかいていた。
(……父さんが死んだときの夢なんて、初めて見たな)
 父が死んだとき。
 アイザはほとんど泣けなかった。泣く暇なんてなかった。
 たった一人の肉親だった。現実には兄や母がいたわけだけど、あの頃のアイザにとっての家族は……いや、今でもアイザにとって家族と呼べるのは父だけだ。生まれてからずっとアイザを育ててくれた、唯一の。
「アイザ?」
 ベッドの横からルーがじっとこちらを見つめてくる。
 寮のベッドと違って毛だらけにするわけにもいかなくて、ルーはいつもふかふかの絨毯の上で眠っていた。
「なんでもないよ。ちょっと夢見が悪かっただけ」
 へらりと笑ってみせたけれど、ルーは顔を顰める。狼が唸る直前のようなその顔は、慣れない人間が見たら怯えるだろう。
「本当に大丈夫だよ」
 念を押すようにアイザが告げると、ルーはため息を吐き出した。
 何も言わないのはアイザを思ってのことか。しかしそれはアイザにとっても都合がよく、曖昧に微笑んでベッドからおりた。

 今日も侍女がクローゼットからドレスが選んでアイザに確認をとる。珍しく落ち着いた深緑色のドレスだったので、アイザは駄々をこねる必要がなかった。
「今日は既にお客様がいらっしゃってますよ」
「お客様……?」
 部屋の外で待たされていたのはガルだった。
レディの部屋を訪ねてくるには早すぎます。まだ身支度も終わっておりません。……と侍女たちから門前払いを食らったらしい。
「どうした? 何かわたしに用でもあった?」
 そういえばここ二、三日はガルとまともに顔を合わせていなかった。
 そのせいだろうか、ガルはむすりと不機嫌そうだ。金の目が思いのほか鋭く、アイザを見る。
「アイザ、無理してない?」
 怒っているような責めているような。けれどその根底にある感情は間違いなくアイザを案じるものであることはわかった。
「してないよ」
 アイザの返答にガルはますます眉間に皺を寄せる。
「……そんな顔で言われても信じるわけないだろ。ちゃんと寝てる?」
「これは……今日はたまたま夢見が悪かっただけで」
「それなら今日くらいゆっくり休んでもいいだろ」
「別に、忙しいわけでも、誰かにこき使われているわけでもないんだけど……」
 ここ数日は北の離宮で過ごしていただけだ。薬草園の手伝いだってしていない。マギヴィルで授業を受けているときのほうがよほど忙しい。
「だったらなんでそんな疲れた顔してんだよ……」
(つかれた、かお)
 しているのか、とアイザは思う。身体はまったく疲れていないんだけどな、と。
「そんなに無理しなくていいだろ。アイザがそこまでする理由ある?」
 口早に問いかけてくるガルに、アイザは答える暇がなかった。ほんの一瞬、口にすることを躊躇ったあとで、ガルはそれでも意を決して口を開く。
「アイザは、アイザだろ。……親父さんの代わりにはなれないよ」
 ガルから告げられた予想外の言葉に、アイザは目を丸くした。タシアンやイアランならともかく、彼からそんなことを言われるとは思っていなかった。
 父の。
 リュースの。
「……代わりになろうだなんて、考えてないよ」
 アイザは笑った。
 自嘲めいた笑いはなんとなくガルに見せたくなくて、そっと俯いた。視界に入る華やかなドレスに、なぜかもっと笑えてきた。なんて場違いなんだろう。アイザはただの学生で、本来こんなお姫様のような扱いを受けるべきではないのに。
 ……いいや、本来は、こちらが正しいのか。
「わたしはただ、自分が後悔したくないだけなんだ。あの時もっと何か出来たんじゃないかって、そしたら何か変わったんじゃないかって」
 これは献身などではなく、ただの自己満足だ。だからこそ偽善で独善。未来の自分が可愛くて自己防衛しているだけ。
「自分に出来たかもしれない何かを、少しでも減らしたいだけなんだと思う。出来ることは全部やったよってあとで言い訳できるように」
 言葉にすると本当に最低だなと思う。傍目には相手に尽くしているように見せて、実際は自分のためだけの行動なのだ。褒められることじゃない。怯えて震えながらも、未来の自分が少しでも傷つかないように先手を打つ。これ以上後悔という傷を重ねないために。
 ガルは何も言わなかった。
 苦虫を噛み潰したような顔をして、ぎゅっと拳を握りしめて、まるで彼が何かに耐えているみたいだった。
「だとしても、もう少し寝た方がいいよ。アイザが倒れたらどうすんだよ」
「でも……」
 待っているから、行かないと。
 アイザが滞在できるのも、ギリギリまで延ばしたとしてもあと三日程度だ。残された時間はもうわずかも残っていない。まだアイザが納得できるほど何かが出来たとは思えない。
 だって、アイザは知っているから。



 ふふふ、とウィアは嬉しそうに笑った。
 いつにも増して嬉しそうだから、アイザがやって来たからだけではないらしい。
「何かいいことでも?」
 女官が用意してくれた紅茶を飲みながらアイザが問いかける。
「これからあるのよ。もうすぐリュースに会えるの」
「……父さん、に?」
 ありえない未来を楽しみにしていウィアに、アイザは笑顔が凍りつかないようにするので必死だった。
「そろそろ会いに来てくれるはずだわ。今回は本当になかなか会いに来てくれなかったから、いつもより会えることが楽しみなの」
 まるで恋する乙女だ。
 いや、リュースに関してだけは、この人は永遠に恋している少女のままなのだろう。おかげでいつもより頬が紅潮していて、身体の調子も悪くなさそうだ。
「あなたには、そういう人はできた?」
「え?」
 唐突の問いに、アイザは目を丸くした。
「会いたくて会いたくてたまらなくなるような人。いつだってその人のことばかりを考えて、嬉しくなったり切なくなったり……そんな風になる人は、できたかしら?」
 それはまさしく、恋と呼べるものだ。
 アイザがおそらくこの世で最もおそれるもの。何もかもを壊して人を不幸にする、災いの象徴にも思える。
 だって、アイザは幸福な恋を知らない。
 物語のようなめでたしめでたしを見たことがない。
「そういう人は……いないかな」
 アイザは苦笑しながら答える。
 ウィアのように燃え上がる恋を、アイザはできない。したいとも思えない。
「あなたは本当にリュースにそっくりね」
 ウィアが目を細め、そっとアイザの頬に触れる。
「わたくしのように、焦がれてやまない恋にはならない」
 ふ、と青い瞳に蔭が落ちる。
 憂いを帯びたその目をアイザは静かに見つめ返した。
 アイザの頬に触れる指はそのまま。ゆっくりと、その感触を確かめるように白い指先が頬を撫でた。
「あ、の……?」
 困惑しながら口を開くと、ウィアはにっこりと笑って手を離した。
「なんだか少し疲れたみたいだから、わたくしは休むわ。あなたも少し眠りなさい、ひどい顔よ?」
 そう言いながらゆったりと立ち上がって、アイザにも小言を零す。
(ひ、ひどい顔……)
 ガルにも顔色が悪いと言われたが、もしかしてものすごくひどい顔になっているのだろうか。
「いいこと? 健康にも美容にも睡眠は大事なの。きちんと眠りなさいね」
 そんな些細な小言が、なんだか母親みたいだな、と思ったあとでアイザは苦笑した。母親だった。
(……母親、なんだよな)
「……はい、母さん」
 未だに意識しないと、その呼び方がアイザの口から紡がれることはない。
 もしもの未来があったのなら、アイザはもっと自然に、彼女を母と呼べたんだろうか。

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