魔法伯爵の娘

うたかた(7)



『父さん?』
 父はふとした時、アイザの目をじっと見つめて、ここではないどこか遠くを見ているような顔をしていた。
『――おまえのその瞳は、母さんに似たね』
 ぽそりと、小さく、小さく吐き出された声は、幼いアイザの耳にしっかりと残っている。それだけ印象的だった。
 やさしい声にも聞こえたし、かなしい声にも聞こえた。その声に宿るのが深い愛情であるようにも思えたし、深い絶望であるようにも思えた。あまりにも溢れた感情は、たった一言の小さな声に凝縮されていて、当時はどうして突然そんなことを言うのだろう、という疑問に掻き消された。
 まるで答えの得られない謎かけみたいだ。

(――父さん)

 父はあの時、なにを思っていたのだろう。

 北の離宮から戻ると、アイザは大人しくベッドに横になっていた。しかし、眠気はなかなかやってこない。睡眠は足りていないはずなのに、すぐに寝入るほど神経も太くなかったらしい。
 身体だけでも休めようと枕に頭を預けながら、ふと父のことを思い出していた。
 アイザの青い瞳は、まさしく母親から受け継いだものだ。
 その瞳を見るたびに、父は何を感じていたんだろうか。懐かしさか、悲しみか、それとも憎しみだろうか。
 対する女王は――母は、アイザの瞳になんの感慨もないように思えた。己と同じ色であることを喜ぶわけでもなく、父と違う色であることを嘆くわけでもなく。
 アイザの濃い灰色の髪は父と同じ色。華やかな顔立ちの母に比べて控えめで落ち着いた印象のアイザは、どちらかと言えば顔も父に似たといえるのだろう。
 だからなのだろうか。ウィアは、アイザを見るたびに嬉しそうに微笑んだ。ここ数日間だけの話ではない。初めて出会ったあの頃から、ずっとそうだ。
 わたくしのかわいい魔法使い、と。
 わたくしのかわいいむすめ、と。
 それはおそらく執着と呼ぶものでもあったけれど、それと同時に母親としての愛情でも、あったのだと思う。

 ごろり、と寝返りを打つ。
 長い髪が流れ落ちて、視界を塞ぐ。明るい陽の光を遮って、なんだか少し落ち着くような気がした。



 ふ、と目を開ける。
 乱れた髪を手で梳いて起き上がると、あたりはすっかり暗くなっていた。
「え? ま、まさかずっと寝てたのか……!?」
 ベッドに横になったのはまだ昼前だったはずだ。しばらくごろごろと考えごとに耽っていたとはいえ、いったい何時間寝ていたのだろうか。
「起きたか」
 ベッドの傍にいたらしいルーがのそりと起きて、ぱっと部屋が明るくなる。魔法で灯りをつけたらしい。
「ずっと寝不足だったみたいだからな、随分と寝入っていた」
「昼寝のレベルじゃないな……」
 壁掛け時計を確認すると、まだ日が落ちたばかりのようだ。とはいえ、六時間近く寝ていたことになる。
 サイドテーブルには『お疲れのようなので起こさずにおります。何か御用があればお呼びください』と書いてあるメモがあった。侍女の誰かが昼食の時にでも残しておいてくれたのだろう。
「顔色が良くなった」
 ルーがぱたぱたと尻尾を振りながらそう言う。ルーにも心配をかけていたらしい、とアイザは苦笑した。
 ぐっすり眠ったおかげで、頭はすっきりしていた。靄が晴れたような爽快ささえある。
 夕食にはまだ早い。もとから食の細いアイザは、寝ただけではそれほど腹も減っていなかった。
「メモ、もう一枚見落としてるぞ」
 落ちてしまったのか、絨毯の上にあるメモをルーが鼻先でつつく。ほんとだ、とアイザは拾いあげて文面を見た。
『今朝の紳士が、またいらしてましたよ』
 少しもったいぶった文に、アイザは笑う。
「ガルが来たんだ」
「寝ているからと侍女たちに追い返されていたがな」
 起こしてくれて良かったのに、とアイザは呟いた。きっと誰もアイザを起こそうとは思わなかったのだろうけれど。
(ガルも、心配してくれてたもんな……)
 その心配を無下にしてしまったわけだけど、休んだおかげでもう顔色も悪くないのだから平気だと伝えるためにも会いに行ってもいいかもしれない。
「この時間だとガルはどこにいるんだろ」
 靴を履きながらアイザは心当たりをかんがえてみる。思えばアイザは、騎士団宿舎の夕食の時間も知らない。
 部屋には侍女の姿もなかった。まだ寝ていると思われているのだろう。念の為とメモを残して部屋を出た。ひやりとした空気が身を包む。
 ルテティアは基本的に年中温暖な気候で、四季の変化はわずかなものだ。今は形の上では冬。ほんの少し昼夜が冷えるくらいで、雪が降るようなことはない。北部には大きな山脈もあるので、そちらは王都周辺に比べると随分気候が違うらしい。
(シルフィがいてくると、こういうとき楽なんだけど)
 ついてきて駄目だと言ったのはアイザだから、こんなときにシルフィをあてにするのはいけないなと自省する。彼女は風の精霊の名に相応しく、するりと飛んで行くので誰かを探しているときとても活躍する。今のところ、彼女が認識している人間がアイザとガル、あとはせいぜいクリスくらいなものなのだが。
 とりあえずガルがいそうな騎士団宿舎へ向かう。
 空には月が浮かんでいた。明るい夜だな、と思う。少し冷えた夜の空気が、頬をかすめるたびに身体が目覚めていくような感覚がある。夜も、夜の静けさも、アイザは好きだ。
 向こうからやってくる、月明かりの下でほんのりの浮き上がるような赤い色を見つける。
「ガル?」
 ちょうど彼もこちらに向かって来ているところだった。ガルがアイザより先に気づかないなんて珍しい。
 金色の目は、こちらを向いていた。声をかけると、ハッと今気づいたかのように、かすかにガルの身体が跳ねる。
「あ、えーっと……今ちょうどアイザのとこ行ってみようかなって」
「わたしも。来てくれたんだって?」
 うん、とガルは笑う。どこか少し、大人びた微笑みだった。穏やかな表情のまま、ガルは良かった、と安堵の息を吐く。
「顔色が良くなった」
「こんな薄暗いところで顔色なんてわかるわけないだろ」
 ちょうど二人が通っていたのは騎士団宿舎までの回廊だ。灯りはあるものの、夜闇をすべて拭いきることはできない。
「わかるよ。俺は夜目が効くから」
「ああ……そうだった」
 アイザには薄暗く感じても、ガルにとってはそうではない。獣人の血が夜さえ明るく見せるから。
 特別運動神経が良いことを除けばごくごく普通の少年だから、時折獣人であることを忘れそうになる。
「……アイザ、大丈夫?」
 低い声が、ゆっくりと月明かりのもとへと落ちる。アイザはガルの顔を見上げた。心配が滲み出るような表情に、くすりと笑ってしまった。
「なんだかそれ、すっかりガルの口癖になったみたいだ」
「口癖になるほど言わせてんのは誰だよ……」
 唇を尖らせるガルに、アイザは大丈夫だよと笑おうと口を開く。きちんと寝たから体調はむしろいいくらいだ。
(ちゃんと寝なさいって、本当だなぁ……)
 もとより睡眠を疎かにしているつもりはないが、父に似たというのは無自覚に睡眠を削っているということかもしれない。駄目なところばかり似てしまったらしい。

 コツリ、と靴が鳴る。

 アイザとガル以外の人間の足音だった。まるで、わざとこちらに存在を気づかせるみたいに足音をたてる。
 アイザとガルが足音のほうへと顔を向ける。月光はその人を照らし出していた。
「……タシアン?」
 藍色の騎士服の青年がそこにいた。
「ここにいたのか」
 アイザを見て、彼は小さく呟く。
 タシアンの低く重い声にアイザの胸がざわりと不穏な風を吹かせた。あまりいい予感はしなかった。こういう時はいつもいやな予感が当たるのだ。
 やってきたタシアンの表情が、そっと歩み寄ってくることではっきりと月に照らされる。
 驚きも悲しみも困惑も、すべて飲み干して隠してしまおうとする顔だった。無表情を取り繕うとして、それがあまりできていない。根が素直な人だから隠し事は苦手なのだろう。
「あの人の容態が、あまりよくない」
 一時間ほど前に意識を失った。
 タシアンは平坦な声でそう告げた。

 アイザは、知っている。
 人の命は蝋燭の火のように、吹けば容易く消えてしまうほど儚いものなんだと。


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