魔法伯爵の娘
女王の子どもたち(1)
知っていたのだ。
気づいていたのだ。
彼女の身体は、きっともう限界なのだと。
いつも女官が淹れてくれる紅茶は、アイザはごくごく普通のものだったのに、時折傍から感じる香りは普通の紅茶のそれとは違っていたこと。その香りが、魔法薬などでも使う薬草などの香りにとてもよく似ていたこと。クリスが魔法薬専攻なので、アイザにも馴染みがあった。
それは爽やかで甘い香りがする薬草で、アイザが疲れたときにクリスが淹れてくれたハーブティーにも似た香りだった。
ウィアは、いつもそれを飲んでいた。たくさん並べられた菓子の類にはほとんど手をつけず。痩せた手で重たそうにティーカップを持ち上げて、ゆっくりと薬草茶を飲んでいた。
知っていた。
気づいていた。
けれどそこから行き着く答えを認めるのが怖くて、ずっと目を逸らしていた。
昼間にたっぷり寝てしまったからだろうか、それとも、とても眠れるような状態ではないからだろうか。
夜空の月が中天に達しても、その月がゆっくりと下っていっても、アイザのもとには眠気がやってこなかった。侍女たちがお腹がすいているだろうと張り切って用意してくれた夕食も半分も食べられなかった。ずっと胃がしくしくと不調を訴えていて、食べ物をあまり受け付けてくれない。
横になる気にもなれず、部屋の灯りをつけないままぼんやりと窓辺の長椅子に腰掛ける。
『きちんと眠りなさいね』
やさしい声が頭の中で響いてくる。
眠らないと、と心のどこかでは焦るのに、身体はまったく動かない。その声を思い出して喉の奥がきゅっと悲鳴を上げる。まるで声にならない言葉を叫ぼうとするみたいだった。
滞在はもう延ばせない。そろそろマギヴィルへ帰らなければ、授業の開始に間に合わなくなってしまう。
(……帰る? こんな状態で……?)
いつか必ず、そう遠くない未来にやって来る別れだった。だからアイザは自分のために、自分が後悔しないために、彼女のもとへ通っていたのだ。
たった十日程度の日々だ。誰にとっても、なんの救いにも助けにもならないとわかっていたくせに、それでも何かしたんだということを形を残したくて意地のように通い続けて。
そのくせ、怯えて大事なことからは目を逸らす。
アイザは自嘲気味に笑って、天を仰いだ。星のわずかな輝きさえ眩しくて腕で視界を覆う。夜なら夜らしく、暗くていい。暗い方が落ち着くから。
(ああ、ほんとうに……)
自分という人間の醜さに吐き気がする。
今も無事を祈るより先に自己保身に走っているのだ。やることはやった。やるだけのことはやった。思考を放棄して、ぼんやりと靄のかかった頭の中でずっと言い訳を繰り返している。結局は自分が可愛くて仕方ない愚か者。それがアイザの思うアイザ・ルイスだった。
真夜中の城内は静かだ。夜回りの衛兵たちくらいしか起きていないだろう。いや、もしかしたらそろそろ料理人は目覚める頃かもしれない。まだ外は暗い。しかしあと一、二時間で夜明けだろう。
そんな頃だった。
コンコン、と小さくノックの音がした。
(ガル?)
ノックの音が空耳ではないのは、足元のルーが顔を上げたのでわかる。こんな時間に、おそらくアイザを案じてやってくる人物に心当たりがあるとすれば、それは一人だけだった。
扉へと目を向ける。立ち上がり扉を開けるべきかと考えていると、向こう側から声がした。
「……アイザ、起きてるか」
聞こえてきた声は、ガルの声ではなかった。
「……タシアン?」
そろりと、扉を開ける。
騎士服のままのタシアンが、厳しい表情でアイザを見下ろした。その傍に、無言のままやんわりと微笑みを浮かべるイアランがいる。
「……ルー」
これはなんとなく人に見られてはいけないものだと察して、ルーに声をかける。きん、と耳鳴りにも似た音のあとで、アイザたちの声は閉ざされる。
「君は本当に、聡い子だね」
苦笑したのはイアランだった。アイザの判断は正しかったということだろう。
「姿も消しているので他からは見えない。妙な噂が流れても困るだろう」
「精霊殿も気配りが細やかだ」
笑みを浮かべながらそう言ったあとで、イアランが真剣な顔をした。まるで死刑執行の判を押すかのような、そんな顔だった。
「会いたいのなら今から会わせてあげられるけれど、どうする?」
誰に、と言わなかった。
しかしそれでも十分だった。
「意識は戻っていない。会いに行ったところで、会話はおろか目も開けないだろう。それでも……」
――それでも、会いたいと思うかい?
イアランの青い瞳は、そんなことを問うようにアイザを見つめた。
危篤状態で、部外者が面会に行けるはずがない。相手は王族であり、ほんの数日前までは女王であった人だ。アイザは書類の上ではまったくの部外者で、今は貴族の端くれでもない。
それでも会わせようとしてくれている。その決断までもアイザに委ねて、一方的なやさしさにせずに。イアランが言うようにアイザが聡い子でなければ、そんなやさしさにも気づかずにいられただろう。だがアイザは気づいてしまう。自分へと注がれる愛情に、これでもかというほど敏感に。
口の中がからからに乾いている。
誰かのぬくもりを求めるように指を彷徨わせて、そこに誰もいないことを悟ると叱咤するように強く拳を握りしめた。自分の手が氷のように冷たくなっていたことにその時ようやく気がついた。
「……会わせて、ください」
声はかすれて、みっともなく震えていた。
アイザとタシアンはルーによって姿を消したまま、北の離宮へ向かう。傍目にはイアランだけがウィアのもとを訪れたようにしか見えないだろう。
静かすぎるほど無音で、歩く音がやけに大きく聞こえた。アイザの足音も魔法によって消されているはずで、だとすれば夜明け前の空気はどうしてこんなに痛々しいくらいに静かなのだろう。
部屋に入ると、消毒薬の匂いがした。あたたかく保たれた室内はひっそりとしていて、人の生活の気配が薄い。
ベッドに横たわる身体はなんだかとても小さく見えた。その手は今にも折れていまいそうなほどに細く、かすかに上下する胸の上に力なく投げ出されていた。
あたたかいはずの室内で、足元が妙に寒く感じる。そんなはずはないのに、つま先からじわじわと寒さが這い上がってくるような気配があった。
誰も一言も発しない。
かすかな呼吸の音だけがやけに耳に残る。
(こうして全員が揃う日がくるとは思わなかったな……)
こんな日は永遠に訪れないと思っていた。そもそもアイザは、ほんの少し前までウィアと会って話すという可能性すらこれっぽっちも考えていなかったのだ。
ここに父がいれば完璧だったのに、とアイザは思った。
「……あ」
そして気づく。
気づいてしまった。
『……ほんとうに、皆、忙しいものね』
『……男の人たちは皆忙しいものね』
あれは。
父のことだけではなくて。
アイザは顔をあげて、イアランとタシアンを見た。男の人。皆。ぽつりと零されてきたその本音は、おそらく夢現の幻などではなかった。
家族などではないと。
家族にはなれなかったのだと。
そう思って、切り捨てていたのは、
「ん……」
吐息のような声のあとで、ウィアの瞼が震える。ゆるりと現れた青い瞳にアイザはたまらなく泣きたくなった。
母さん、と。
おそらく、今この時こそ呼ばなければならなかった。
けれど声は喉に張り付いて音にならない。笑顔を作りたいのに、ここ最近上手くなったはずの作り笑顔がまったく出来なかった。
顔が見えるようにと枕元へ歩み寄る。
ぼんやりと天井を見つめていた瞳が、やがてゆっくりと動いた。
タシアン、イアラン、アイザと。
確かめるようにそれぞれの姿をとらえて、その青い目に浮かんだのは、よろこびだった。嫌悪や戸惑いなど一切ない、純粋な、歓喜だった。
ああ、と零れるように声が吐き出される。青い瞳の端から、つぅと涙が零れ落ちた。
「わたくしの、いとしい、子どもたち」
言葉とともに伸ばされた白い手は、ぱたりと落ちる。まるで飛び立とうとして墜落した鳥のようだった。
歓喜を宿した瞳は、再び瞼の下に隠されてその色を見せない。
いたわるようにそっと手に触れる。
白くて細くて、まだほんのりとあたたかい手だった。けれどアイザは、父が死んだ朝を思い出していた。
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