魔法伯爵の娘

未来へ繋ぐ(4)


 森は街を包み込むように広がっている。王都でありながら豊かな自然を残したままの、ノルダイン王国の王都ノイシュ。
 その中に小さな都市のようにして存在しているのがマギヴィルだ。
「この時間だとまだ授業中だな」
「うーん……クリスは受けている授業の数も少ないから、捕まらないこともないと思うけど」
 アイザより先にマギヴィルに通っていたクリスは、授業の隙間時間が増えている。その時間に自分の勉強や研究をするのが魔法科の生徒の常だ。

「ママ!」

 商業区を歩きながら学園の門を目指していると、はしゃぐ声がする。
「シルフィ……?」
 アイザにの腕に飛びついてきたのは少女の姿をした精霊である。その色合いや顔立ちはアイザのシルフィにそっくりだが、別れた頃はもっと幼かった。
「おかえり! パパだけ先に帰ってきたの、びっくりしたのよ!」
(あ。うん。シルフィだ)
 アイザをママと呼びガルをパパと呼ぶ精霊なんて他にいない。
「ちょうど良かった、シルフィ。クリスがどこにいるかわかる?」
「クリス? わかるよ。連れてってあげる!」
 こういうときシルフィがいると話が早い。もともと居場所を知っているのではなく、彼女が風の精霊としての力を使って気配を見つけ出しているのだ。
「タシアンはちょっと待ってて。通行証、今回はないだろ」
「手に入らないことはないが。……待っていたほうが早そうだな」
 そうだな、とアイザは笑う。
 クリスが授業中だったり予定があると困るが、ルームメイトのアイザは彼がわりと暇を持て余していることを知っている。もし万が一都合が悪そうならシルフィに伝言を頼めばタシアンも時間を無駄にすることもない。

「シルフィは成長……したのか? 精霊ってこんなに短期間で成長するもの?」
 アイザに久々に会えたことが嬉しいのか、はしゃいでいるシルフィのあとを追いながらアイザがルーに問いかける。
「内面の成長に合わせて見た目も変わったんだろう。人と接することが多いから成長が早かったのか」
 なるほど、とアイザは納得する。
 精霊の大半は自分の意志を持たない、ぼんやりとしたものだ。もちろん対話できるものもいるが数はそう多くない。
 シルフィは生まれてからずっとアイザたちと接している分、学習する機会が多いのかもしれない。

「あ、パパ!」

 シルフィがぱっと嬉しそうに声をあげる。
 数メートル先、ちょうどアイザたちが向かっている方からガルが歩いてくる。シルフィの声に気づいたのか、金色の瞳と目が合う。



 パパ、とガルのことを呼ぶのはシルフィだけだ。明るい声が耳に届いて、ガルは顔をあげる。
 はしゃぎまわるシルフィの後ろに、アイザがいた。
 アイザだ、と。
 そう認識した途端、身体中が震える。心臓がぎゅっと握り締められたみたいに苦しくなって、浅く息を吐き出した。
 瞬きすることすら惜しくて目を見開いたまま、地面を蹴る。
「……アイザ」
 走った距離なんて一瞬だった。
 目の前にいる少女の名前を口にすると、指先まで痺れるような心地良さがある。
「ただいま、ガル」
 ふわりと微笑みながらほんの少し首を傾けると、濃灰色のまっすぐな髪がさらりと肩から流れ落ちた。
 声を聞くと、満たされていく心地がした。喉が渇いていたのかもしれない。そこに、水が流れ込んできたのかもしれない。そんな、満たされ潤されていく感覚。
 一度目を閉じる。
 溢れ出てきた感情は、あまりに暴力的であまりに心地よい。
 喜んでいる。
 アイザに会えた、ただそれだけのことを。
「……触っていい?」
「え? 何を今更……」
 アイザは改まって聞かれる方が困る、という顔をしている。それもそうだ、と納得する一方で、触れたら壊れてしまいそうだと不安になる自分もいた。
 けれど触れたい。
 満たされたばかりなのに、飢えていく。妙な感覚だった。
 そろそろと手を伸ばす。アイザの手は少し冷たくて、ガルの手よりずっと小さい。柔らかな皮膚をゆっくりと撫でる。右手の指には小さなペンだこがあった。
 息を吐き出す。ようやくしっかりと呼吸できているような気がした。
「……ガル?」
 アイザが不思議そうにガルを見上げる。以前は同じ高さだったのに、今はほんの少し、アイザがこちらを見上げてくるようになった。

 ……ああ、好きだな。
 好きで好きでどうしようもないほど。

 手に触れていた左手はそのまま、自由な右手を持ち上げて、ガルはアイザの頬に触れた。
 あのさ、と口を開く。
 静かな声だった。
「……抱きしめていい?」
「へ?」
 予想もしなかった言葉に、思わずアイザは声を漏らす。
 見開かれた青い瞳には明らかな動揺の色があった。
「あ、いや。嫌ならいいや」
 アイザが嫌がることをしたくない。
 あっさりとガルは頬に触れていた手を離した。ぬくもりが去っていくことを寂しいと感じたのは、むしろアイザのほうで。
「別に、嫌なわけじゃないけど……」
 ちょっと驚いただけで。
 ガルはわざわざ何かを宣言してから行動するなんてあまりないから、戸惑っただけだ。
 ぱちぱち、と。
 ガルが瞬きをする。
 金色の瞳は、まるで蜂蜜のような色をしていて吸い込まれそうなほど綺麗な輝きを放つ。とろりと溶けるような熱量をもって、金の目が細められる。
 ゆっくりと持ち上げた腕で、壊れ物に触れるように抱きしめる。
 やさしく。丁寧に。
 肩口に顔を埋めると、石鹸の香りがした。さらさらとした濃灰色の髪が頬をくすぐる。それがたまらなく心地いい。

「……おれのうんめい」



 伝わるぬくもりは、じれったくなるほどやさしくかすかなものだった。抱きしめる、というよりも包み込む、が正しいと思うほど。
 耳元で聴こえた声は、噛み締めるような響きで。
 言葉の意味を理解するよりも、なぜか落ち着かなくなってそわそわする。
 与えられるぬくもりは間違いなくアイザの知るものなのに、とてもいけないことをしているような気分になった。
 湧き上がってきた羞恥心に耐えかねて、アイザは弱々しく胸を押す。たったそれだけで、ゆるやかな拘束はほどかれた。
 そのときの、ガルの顔は、大人みたいに穏やかで満ち足りていて、アイザはたまらなく恥ずかしくなる。
(なんだかガルばかり、先に大人になってくみたいだ……)
 それがずるいと思うし、悔しいとも思う。
 むぅ、と唇を引き結ぶアイザに、ガルが「どうかした?」と声をかけようとした時。

「ガルー! 次の授業遅れるぞ!」

 少し遠くからヒューの声がした。
「あ、今行く」
 ガルが顔を上げて答える。
 ヒューはガルが誰かといたのだと気づいて、目を凝らすとアイザを見つけた。
「ん? アイザ? 帰ってきたのか?」
「今さっき……」
 制服を着ていないので遠目では誰かわからなかったんだろう。
「良かったなガル」
「うん」
 そんな会話がアイザ本人の目の前でかわされることに若干の気恥しさはある。ガルはまったく気にしていないようだけど。
「……二人ともそろそろ授業なんだろ?」
 このままでは長話が始まりそうだとアイザが声をかける。ヒューが慌てたように「そうだった」と苦笑する。
「じゃあまた寮でなアイザ」
「うん、またあとで。……ガル」
 ヒューとの会話のあとで、アイザはふと思い出した。ガルにはこのあとの行き先を伝えておいたほうがいいかもしれない。
 なんせ彼は、タシアン並の過保護だから。
「うん?」
「わたし、これからタシアンとミシェルさんのところに行くと思う。門限までには帰るけど」
 どんなに話が長くなっても、さすがに門限を破ることにはならないと思う。そもそもまだ学園には帰ったきたことを伝えていないから門限破りにもならないのだけど。
「……タシアンと?」
「うん」
「ふぅん……わかった」
 何か言いたげではあったが、ガルは大人しく頷いた。
 授業へ向かう二人を見送って、アイザは息を吐き出す。呼吸を整えて、落ち着いたところでシルフィを見た。
「クリスは?」
「あっち!」
「じゃあ行こうか」
 全部見ていたくせに何も言わない精霊たちにアイザは文句のひとつでも言いたいところだが、そもそも精霊たちにとっては人のやりとりに介入することはありえないことだ。だって人間のほとんどは精霊が見えないから、精霊はただ見ているだけである。
 たぶんアイザが嫌がる素振りでも見せれば、ルーは止めにはいるのだろうけど。
(……ヒューに見られなくて良かった)
 なんとなく、目撃されたらとんでもないことになっていた気がする。別にやましいことなんてないけど。ガルもきっと、再会の喜びをああして伝えてきただけで。
 ぐるぐると頭の中で言い訳を繰り返しながらアイザはシルフィのあとをついていく。

「……なんで百面相しながら歩いてるんだ」

 呆れたような少年の声に、アイザは顔をあげた。
 ふわふわとした金の髪が風に揺れていて、レースのついたロングスカートが制服の上着の下からちらちらと見えている。白いタイツに、編み上げのブーツ。見た目には完璧な美少女だ。
「クリス」
「ん。おかえり」
 まだ旅装のままのアイザを見て、マギヴィルに到着したばかりだと判断したのだろう。自然に出てきた言葉に、アイザはちょっとくすぐったい気持ちになる。
「ただいま」
 寮の部屋でも幾度も交わされたやり取りだけど、久々だとなんだか不思議な気分になる。
 おかえりと言われる場所があちこちにできていて、それがまったく嫌ではないのだ。
「クリス、このあと時間あるかな」
「あるけど、なんで?」
「ミシェルさんに会いに行きたいんだ。……タシアンが」
 タシアンの名前を出さないのはずるいだろう、と、最後に付け加える。
 クリスは一瞬だけ目を丸くして、すぐに「なるほど」と理解する。
「狐は一枚も二枚も上手だったか」
「……まぁ、うん」
 狐と呼ばれたイアランを否定出来ず、アイザは苦笑いで頷いた。


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