君と肩を並べるまで

(8)


 周囲の目など気にせずに、気がつけば駆けだしていた。
 一人残されたリノルアースは苦笑しつつ兄の背中を見送った。

 会いたかった会いたかった会いたかった会いたかった!
 彼女の周囲に集まり始めた男達が邪魔で仕方ない。触るなと大声で叫びたいけれど、身体はそれよりも正直に彼女のもとへと急いだ。
 大きな会場をこの時ほど恨めしく思ったことはない。
 彼女は少し会場を見回して、そしてすぐにこちらと目があった。その瞬間に照れたように、嬉しそうに微笑むものだから相変わらず始末に悪い。
「失礼」
 ダンスに連れ出そうと集まる男の群れの中からすっと抜け出す。ドレスの裾がふわりと揺れて綺麗だ。
「レイ!」
 それほど長い距離ではなかったはずなのに、千里も走ったような気がした。
 アドル様、とその唇が名前を呟く前に、強引に引き寄せた。
「っ!」
 腕の中の彼女が息を呑む。
 周囲が騒がしいことなんて気にならない。騒ぎたければ騒げばいい。
「アド、アドル様!」
 慌てたように腕の中でレイがもがく。
 そんなささやかな抵抗すら許さないと強く抱きしめていると、レイも観念したように力を抜いた。
「……移動しましょう、それに、顔を見せてください」
 そう諭されるように言われて、そう言えば顔はあまり見ていなかったな、とようやくレイを解放する。周囲から集まる視線が痛いくらいだが、それはもう無視しよう。
「エスコートの仕方もお忘れですか? アドルバード様?」
 何なら私がエスコートしますけど。
 レイが苦笑しながらそう言う。見惚れていたなんて、そんな正直に言うことも出来なくて誤魔化すように恭しく――それこそ花嫁を連れ出すように、病める時も健やかなる時も一緒になんて誓いに行くように――そっと手を差し出す。
 二人が会場から堂々と抜け出したその後で大きな騒ぎとなったことは言うまでもない。



 近くの部屋まで移動し――バルコニーに出ると、少し冷たい風が頬を撫でた。
「寒くないか? 上着貸そうか?」
 ドレスはどうも寒そうに見えて仕方ない。実際に着てみるとそうじゃないということは分かるけれども。
「平気ですよ。……久しぶりにコルセットで締め付けられているので少々辛いところですが」
「……どこかに座った方がいい?」
 コルセットで締め付けられている苦しみを充分に知るだけに、レイに対する気遣いも増えるというものだ。
「大丈夫です。お久しぶりです、アドルバード様」
 ふわりと微笑みながらそう言うレイに、また抱きしめたい衝動に駆られて必死で堪える。
「久しぶり。……それと、ごめん、かな」
「それは――こちらこそ、ですね。お互い様なので水に流しましょう?」
 喧嘩別れしたことなどないので、お互いにぎこちないのは仕方ないだろう。レイの方から出された提案に、アドルバードも素直に飲む。そもそもお互いにもう怒りなんてないから喧嘩なんて続ける意味がない。
「これだけ会わなかったのって、初めて――かな」
 物心つく前からレイは傍にいた。小さな頃から彼女がいないと手に負えないほどに泣き喚くことが多かったらしいので、数日と置かずに会っていた。
「アルシザスの誘拐事件以来ですね。あの時は今よりずっと短い期間でしたけど」
「……懐かしいな。会いたかったけど、少し冷静にもなれたかも」
 傍にいることが当り前過ぎて見えなくなっていたものが確かにあった。離れたことで見つけられた想いもあった。
 たぶん――リノルアースが伝えたかったのは、そういうことなのだろう。
「そう、ですね。再確認できました」
 苦笑しながら呟くレイを見下ろしながら、アドルバードが意地悪げに笑う。
「――何を?」
「……気づいていらっしゃるようなので、言いません」
 レイは照れたように顔を逸らす。ズルイ逃げ方だなぁ、と苦笑しながら、今まで気づかなかった目線の違いに気づく。
「……あれ?」
 慣れないドレスを着ているせいで、レイは踵の低い靴を履いている。実際の身長に限りなく近い状態なのだろう。
「どうしました?」
 じっと見つめていると、レイが不思議そうにこちらを見る。お互い真っ直ぐに見つめあって、いつもにない違和感に気づいた。
「……もしかして、俺、レイのこと抜いた?」
「……そのようですね」
 レイも驚いているのか、呆然として呟く。本当にわずかな差だか、レイを見下ろしている。肩のラインはほとんど差がないようだから――たぶん一、二センチくらいの差なのだろうが。
「あ、じゃあこれからいつでもキスでき――」
 思わず本音が零れると、レイが冷ややかな目で睨んできた。思わず本音の途切れる。
「……ご不満ですか、レイさん」
「そうやって女心が理解できないから今回のようなことになるんですよ。いつでもってなんですかいつでもって。そんなに安いものですか。そうですか。そんなに安い女ですか。ええ別にかまいませんけど私は」
「えええええええいや、違う。違うから!! 全然そういう意味じゃないから!! た、ただ今までよりも少しやりやすくなるなぁってそれだけで!」
「やりやすいですか。へぇ」
「ああああああの! 誤解してません!? なんか激しく誤解してません!?」
 心なしか一歩距離が開いた気がするんですけれども!!
 慌てて弁解をしているとレイは呆れたように笑う。
「……また喧嘩しても仕方ありませんね」
 どうやら本格的に機嫌を損ねずに済んだようで、ほっと安堵する。
 逃がさないようにとレイの腕を掴み引き寄せると、困惑したように見つめられた。そういう顔をされるといろいろと弱いので気づかないふりをした。
「別に安いとかそういうんじゃないから。……ただ主従だったのが恋人だって大声で言えるようになれたのが嬉しいってこと」
「……アドル様が妙なことにこだわらなければもっと早くにこうなっていたんだと思いますけど」
「そこは言わない約束……」
 いつまでも根に持たれ続けるんだろうかとアドルバードは肩を落とす。まだあまりない身長差で、こうして密着していると相当近い。そんなことに今さら気づいて動揺した。
「……後悔は、しませんか?」
 レイは腕の中で静かに呟いた。
「後悔? なんで?」
「ハウゼンランドは一夫多妻制ではありませんよ。私を選んでしまったらそれきりです。本当に――本当に、私でいいんですか?」
 レイの声は、今ならまだ戻れると言っているようだ。戻ってほしいと彼女は思っているのだろうか。
「何度言わせる。俺はおまえ以外はいらない」
 ずっとずっと昔から――それこそ彼女がこちらを向いてくれる前から、ただ一人を見て来たのに。それを今さらになって、やっと手に入ったその時になって手放すなんてありえない。
「俺は今までずっとおまえ一人って決めていたんだぞ。それが今さら覆ると思うか?」
 抱きしめる腕に力を込めると、レイは安堵したように息を吐いた。
「覆さないでください。これからも」
 まだ少し怯えたように背中に腕を回るレイがいとおしかった。
 身分の差を彼女でも不安に思うのだろうか。剣だけでは戦えないような場所にまで連れ出すから。
「……約束する」
 ぎゅ、と強く抱きしめて、こちらの体温も想いも何もかも――こうして触れ合う肌から伝わればいいのにと思う。










 それからどれほどの時が経っただろう。
 かつてこれほどまでに甘い時間が二人の間に流れたことはあっただろうか。いや、あるわけがない。
「………………レイ」
 小さく名前を呼ぶと、レイは顔を上げてなんですか、と答える。
「えー……と。その――…………」
「なんですか」
 口籠もるアドルバードに苛立ったのか呆れたのか、レイはまた同じ問いを繰り返す。
「……その、……………………………キス、してもいい?」
「………………………」
 沈黙が重い。
 しかしながらついにようやっと、恋人同士になったのだからもちろんアドルバードとしてはそういう欲も湧いてくるわけで。
 加えてここ数か月も会えない日々が続いたのでレイ欠乏症はかなり末期だ。
 ふぅ、とレイが呆れたようにため息を吐く。アドルバードはその反応にびくり、と怯えた。レイを怒らせることに関しては今回のことで完全にトラウマだ。
「アドル様」
「は、はいっ!?」
 す、とレイの手がアドルバードの頬まで伸びてくる。ひんやりとしたその手のぬくもりに、あまり長いこと外に居すぎただろうかと思った。
「ここは、確認をとるところではないと思いますけど?」
 そのセリフが最後まで言われるか否か――少なくとも、その言葉にアドルバードは言葉を返せなかった。
 唇に重なる熱に、一瞬だけ驚かされる。そしてすぐにそれを認識すると、放さないようにとレイの頭を支える。冷たい唇が熱を帯び、お互いが同じ温度になるまで――『初めて』の恋人としてのキスは甘く甘く脳髄を刺激した。






 かくして王子の十八歳の誕生日を前に、ハウゼンランドではその恋人のことで騒ぎになった。
 それが王子の騎士であり、アヴィランテの女領主になった人であると噂が広がるまで、そう長い時間はかからなかった。




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