可憐な王子の騒がしい恋の嵐
47
一生、恋をすることはないだろうと――心のどこかでずっとそう思っていた。
恋なんて甘く幸せな言葉を信じられるほど、幸福な環境ではなかった。
だから困惑してる。
まさか、この気持ちが恋だとでもいうの?
「――降り出したな」
シェリスネイアの隣で歩いていたウィルザードがぽつりと呟く。
廊下の窓の向こうを見ている彼につられて、シェリスネイアも視線を移すと、そこには白いふわふわとした塊がしんしんと降り始めていた。
積りそうだな、というウィルザードの声に、シェリスネイアの目が輝く。
外に出て――子供のようにはしゃぎたいという欲求が自然と湧いてくる。アヴィランテに戻れば――そして嫁いだ先によっては、もう見ることもなくなるだろう、雪。
そんなシェリスネイアの心境を見抜いてだろうか、ウィルザードがす、と手を差し出す。
「少し寄り道しますか? お姫様」
からかうような、面白がるような声に少しだけむ、としながらも、シェリスネイアはその手のひらに自分の手を重ねた。
「少しだけ」
そんなふうに答えたのは素直じゃない自分の性格上しかたないことだった。
はぁ、と吐き出す息は白く、すぐに空気のなかに溶けていく。
見上げれば空からは雪が止まることなくゆっくりと地上に落ちてくる。常緑樹はその葉を白くして、足元は徐々に雪が重なり合っていく。
わざわざ雪が降っているのに中庭に行く人間はそういないでしょうね、なんてウィルザードは厭味を言いながらも律儀について来てくれる。
「転ぶぞ」
うっすらと積もった雪の上を歩くシェリスネイアの手を、ウィルザードはしっかりと握る。彼の足取りには迷いがなく、すたすたと歩いてくが、シェリスネイアは滑るその上を少し緊張しながら踏みしめる。
「……あなたは、珍しくないのね?」
歩きなれた人間の歩き方に、シェリスネイアは確認するように問う。
「ネイガスはハウゼンランドのすぐ近くですよ。まぁ、ここほど降りはしませんがね」
馬鹿なことを聞いたな、とシェリスネイアは苦笑する。分かり切ったことだったのに。
「ここと同じように寒いの?」
南国育ちのシェリスネイアは、外を歩き回るのもそろそろ限界だ。きちんと防寒していないので、指先がもう冷えている。
「いいえ。ハウゼンランドは山脈があって、標高が高い分寒いんですよ。うちはここまで冷えはしません。双子なんて冬にうちに来て暖かいなんていうくらいですからね」
「そう――それじゃあアドルバード王子はアヴィラに来たら本当に茹だってしまうかもしれませんわね」
以前にアドルバードがそんなことを言っていたな、と思い出してシェリスネイアは笑う。アヴィランテは常夏の国だ。
「そりゃきついでしょうよ、アヴィラは」
そう言いながらウィルザードは上着を脱いで、シェリスネイアの肩にかける。
「寒いでしょ。戻りますか」
中庭の入口まで、と思っていたというのに、気がつけば随分と奥まで来ていた。指先が寒さでしびれているし、肩もすっかり冷えている。
「結構ですわ。あなたが寒いでしょう」
そう言って上着を返そうとするシェリスネイアの手をウィルザードはやんわりと止める。
「これくらいの寒さなら慣れてますから平気ですよ。あんたを部屋まで送る間くらい、どうってことはありません」
そう言ってウィルザードはまた手を差し伸べる。シェリスネイアが転ばないように。
その大きな手に包み込まれることを、とても自然なことのように思い始めている。アヴィランテに戻ればこの手はないというのに。
側にいることが心地いいと思う。もう残された時間はわずかなのに。
『あなた』から『あんた』と呼び方が完全に変わっていることに気がついて、嬉しいなんて思う。敬語であったりなかったりするのはもう癖なんだろうなと、そう分かるほど最近は一緒にいる。
――もしこれが恋だというのなら。
気がつかないままの方が良かった。
アヴィラに帰って待っているのは国の駒としての政略結婚。
分かっていたことだ。だから別に不満はない。
けれど。
どうせなら、甘い記憶なんてないまま、恋なんて知らないまま、好きでもない男のもとに義務なのだと言い聞かせて嫁ぐ方が――ずっと、楽だったのに。
■ ■ ■
「はあああああぁぁぁぁぁぁぁ」
重たいため息は思わず自分が吐き出したのだろうかと、シェリスネイアは現実に引き戻された。
しかしそれは目の前の美少女によるものだとすぐに分かる。珍しい赤みがかった金髪に、青い瞳の少女――リノルアースは実に疲れたように頬杖をついていた。
「ど、どうなさったの?」
シェリスネイアは見たことのないリノルアースの憔悴ぶりに、少しだけ動揺していた。
リノルアースはちらりと、半眼でシェリスネイアを見る――否、睨んでいた。
「べーつーにー。もう決まったことだし、文句言うつもりはございません事よ? 本人の意思だって固いんだろうしー」
「なんのことをおっしゃってるの?」
自分に用意された部屋に、無断でリノルアースがいることにはもう驚かなくなってきていた。彼女は神出鬼没だ。
「…………どっかの誰かさんのお兄さんで、ヘタレで押しに弱くてなんで騎士なんてやってるんだろうと疑いたくなる人」
シェリスネイアは言葉に詰まった。
リノルアースの話す人――ルイを奪うのは紛れもなく自分だ。
「ああ、シェリーを責めてるんじゃなくてね? あんなヘタレな人間のくせに大国の皇子様なんて務まるわけないじゃんとか個人的には思うわけよ? いつもなら絶対私の言うこと聞いてたくせに今回ばっかりは頑なだし」
そのくせにハウゼンランドにいる間はきっちり騎士として振る舞ってるし、でも時々なんか突然不意打ちをかましてきたりするし、云々。
惚気ともいえるんじゃないだろうとかというリノルアースの愚痴を聞いた結果――シェリスネイアが導き出した答えは実に簡単だった。
「つまり――さみしいのね? あなた」
図星だったのだろう。リノルアースは頬を赤く染めながら、ぶつぶつと抗議する。
「そういうわけじゃ……でも、その、シェリーは今回のパーティ終わったら帰っちゃうじゃない?」
「ええ、もちろん」
「つまりアレも連れて行くわけじゃない?」
「そういうことになりますわね」
今更な問答ではないだろうかと思いながらもシェリスネイアはきちんと答える。
「ああくそっあん時しとけば良かった……!!」
「口が悪いですわよ、リノル。あの時って? しとけば良かったとはどういうことかしら?」
突然騒ぎ出したリノルアースを冷静に観察しながらシェリスネイアが問う。
「つっこまないで。頼むから。だってあいつ帰ったら戻ってこなかったりしそうだもん。他の奴らから皇子としてどっかのお姫さまと結婚しろとか言われたら流されちゃいそうだもん。あ――っ! 想像できる自分が怖い――――!!」
自分の兄にあたる人はどれだけ信用されていないんだとシェリスネイアは苦笑する。
「心配いりませんわ。そういう人じゃないって、本当はリノルは一番知っているんでしょう?」
要は、愚痴りたいだけなのだ。彼のいない場所で、不安を吐きだしたいだけなのだ。
「分かってるわよ。それに――もし万が一、そんな風に流されやがったらこの私が全力でつぶしてやる」
大国アヴィランテ相手にも泣き寝入り無しで本気でやりそうな彼女にシェリスネイアは頬を引きつらせた。
「あ――――……でも吐き出したらすっきりしたわ。ありがと、シェリー」
ぐったりとソファにもたればがらリノルアースは素直にお礼を言う。アドルバードにもこんなことは愚痴れないのだろう。
「どういたしまして」
「それで? シェリーもどうぞ? 吐きだしたいんでしょ?」
ああ、本当にこの娘は。
どうしてこんな風に悟ってしまうんだろう。
防波堤は簡単に決壊した。
心の奥底で暴れまわっていた感情が一気に押し寄せる。
「――しかた、ないのよ。だって、私には選ぶ権利なんてないんだもの。政略結婚なんて珍しくもないし。でも、だから、恋なんて知らなくてよかったのに! 優しくされると嬉しいなんて、差し出される手が嬉しいなんて! そんなものどうでも良かったのに!」
もう止められない。
吐き出された感情は間違いなくシェリスネイアの恋心だった。
「側にいられるのは今だけだって分かるのに――気がついたら止まらないんだもの。ありのままで私でいられる人なんて今までいなかったんだもの。叶わないって、分かっているのに――!」
ありのままの自分を、弱さや強さを、隠さなくていいということがこんなにも心地良いなんて知らなかった。
シェリスネイアの黒曜石の瞳から、透明な雫が流れ落ちる。
「恋なんて、知らなければ良かったのに――」
そうすれば、不幸を不幸と気がつかないまま、生きて行けた。
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