可憐な王子の騒がしい恋の嵐

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51

「――――――ん……」


 小さく声を漏らして、レイは伏せていた顔を上げる。どうやらアドルバードを付きっきりで看ていて、そのまま寝てしまったようだ。
 アドルバードが倒れ、日付が変わった頃だろうか。
 呼吸はまだ少し荒く、熱は下がらない。医師がグラスから毒を割り出し、ハウゼンランドにあるものでどうにか解毒剤を作ろうとしているところだ。
 アドルバードの額にのせていたタオルを濡らして絞り、もう一度のせる。そんなことばかり何度も何度も繰り返していた。それくらいしか、今のレイには出来なかった。
 部屋は真っ暗だった。おそらく深夜なのだろう。窓の向こうに寒そうな月が見えた。
 水を替えたいのだが――頼めるような侍女はいないだろう。アドルバード付きの侍女は皆、レイと同じく先ほどまでずっと休まず動いていた。だからレイが休むようにと命じたのだ。


「アドル様、すぐ戻りますね」


 眠っている侍女達を起こすのは可哀想だ。幸いにして、わずかだが熱が下がったようで、レイは自分で水を替えてこようと盥を持って立ち上がる。
 深夜の城は、昼間の騒々しさをどこへ置いてきたのか、ひっそりと静まりかえっている。
 こつこつという自分の足音がやけに響く。
 幽霊でも出てきそうな雰囲気の中、レイはまったく動揺せずに、極力足音をたてないように、だが足早に歩く。
 空気が冷たく、吸い込むごとに肺が冷える。


 水を替え、アドルバードの部屋に戻ろうと来た時よりも急ぐと――




「――――――誰です」




 行く先の角に、人の気配があった。
 どれだけ動揺していようと、どれだけ急いでいようと、気配に気づかないほどレイは堕ちてはいない。
「こんばんわ」
 こつ、と一歩出てきたのはアヴィランテの皇子――ヘルダムだ。
 レイは思わず身構える。両手が塞がっていなければ間違いなく剣に手をかけているところだ。
 レイの殺伐とした雰囲気に気づいたのか、ヘルダムは苦笑して、両手を上げる。
「危害を加えるつもりはないから、警戒するのは止めてもらえるかな」
 レイは無言のままヘルダムを一瞥し、殺気を感じないことから警戒を解いた。どうも、という気軽い声が耳に残る。
「アヴィランテの皇子ともあろうあなたが、こんなところでどうなさったのです?」
 アドルバードが倒れてから、シェリスネイアもヘルダムも部屋にいたはず。護衛も無しにこんな場所にいるわけがなかった。ましてこんな深夜に。


「ちょっとね、あなたにプレゼントを」


 ある意味で表情の読めない笑顔で、ヘルダムは静かにレイに近づく。
 水の入った盥の中にぽちゃん、と小さな小瓶が落とされる。緑色の液体が小瓶の中で揺れていた。
「これは――」
 レイが何かを問おうとするが、ヘルダムはにっこりと笑って、レイの耳元に口を寄せる。




「信じる信じないはあなたの自由だ。大切な人を助けたいなら、それを飲ませるといい」




 じゃあね、と最後に囁かれ、ヘルダムは去っていく。
「まっ……」
 呼びとめようとレイが振り返るが、ヘルダムは振り返らずに手をひらひらと振っていた。
 問い詰めても答える気はないのだろうと、レイはアドルバードの部屋まで急いだ。






   ■   ■   ■





「夜分に失礼します! すぐにこの液体の成分を調べてください!!」


 アドルバードの部屋に盥を置き、そのままレイは城の医務室へ走った。眠っている医師を叩き起して小瓶を突き付ける。
「ど、どうしたのかね。急に」
「説明している暇はありません。すぐに調べてください! もしかするとアドル様の飲んだ毒の解毒薬かもしれない」
 医師は目を見張り、そして小瓶からほんの少しだけ液体をとる。
 それからは苛立つほどに時間がゆっくりとすすみ――グラスに残っていた液体に小瓶の液体を零し、医師はじっとそれを見つめる。そのあとで専門的な検査をして、ほぅ、と息を吐いた。


「どこで手に入れたんだね? 確かにこれは解毒薬だ。アヴィランテでしか手に入らないはずだが」
 その言葉を聞くなりレイは小瓶を医師からむしり取る。
「説明は出来ません。アドル様に飲ませてきます」
 おい、という医師の質問やらを全て無視してレイは走り出した。




 ――彼女の主のもとへ。









「アドル様」
 息を切らしながらレイは小瓶をアドルバードの口元にあてがい、傾ける。しかし熱に喘ぐアドルバードがそれを飲み込むことは叶わず、液体が口から零れていく。
 レイはこれ以上薬を無駄にしないようにとすぐに止め、一瞬の迷いもなく小瓶の中の液体を、一気に口に含んだ。零さないように細心の注意を払いながらアドルバードの唇に自分のそれを重ねる。
 苦しげにアドルバードが息を漏らす。こく、と喉が鳴ったのを確認して、レイは唇を離した。
 すぐに効果は確認できるはずもないが――心なしか荒かった呼吸は規則的になっている。
 ほ、と安堵の息を吐き出し、そっとアドルバードの髪を撫でる。
「…………良かった」
 アドル様、と呟く。
 不意に目頭が熱くなって、動揺した。
 瞳からそれが零れ落ちる様を見るのは嫌で、レイはアドルバードの上にうつ伏せる。


 ――おまえ、泣かないよなぁ。


 そんなことをアドルバードは言っていた。
 確かにそうだ。最近では泣くことなんてなかった。昔からそうだ。どんなに辛いことがあっても別に平気だった。耐えられた。
 でも。


「あなたに、なにかあったら」


 泣くかもしれない、なんて。
 あの時は冗談だったけど。
 生温かい何かが頬を濡らす。随分と久し振りな感覚にレイは戸惑うしかなかった。泣くことを耐えることは出来るけど、涙を止める術は知らない。
 声を上げて泣くなんてことも出来ずに、レイはただ静かに泣いた。
 張り詰めていたものが一気に溢れていく。
 今だけは泣く自分を許すしかなかった。







「――――――レ、ィ?」





 聞き間違えるはずもない人の声。
 うつ伏せていた顔を上げて、レイは声の主の顔を見る。
「アドル、様?」
 アドルバードはああ、と小さく応え、レイを見て――目を見開く。
「おまえ、なんで泣いて――」
 動くのもまだ辛いだろうに、アドルバードは慌てた様子でレイの頬に触れる。まだ熱をもった掌に、レイは少しだけ甘えたくなった。
「馬鹿な質問しないでください」
 自分の頬に触れるアドルバードの手に自分のそれを重ねて、レイは苦笑する。


「あなたに、何かあったからに決まってるでしょう」


 アドルバードは虚を突かれたように目を丸くし、そしてごめん、と呟く。
「そういえば俺毒飲んだ? どれくらい経った?」
「確かに飲みました。飲んだ日の深夜ですよ。もう日付は変わったでしょうけど」
 そっか、とアドルバードが安心したように微笑む。
「まさかあんな大がかりなパーティの前にぶっ倒れて全部中止なんてなったら最悪だし」
 相当な金がさらに必要になるだろう。弱小国のハウゼンランドには痛い話だ。
「自分の身よりお金の心配ですか」
 呆れたように笑うレイをアドルバードは黙って見上げる。
 彼女の頬を濡らしていた雫はいつの間にか渇いていた。その頬に確かな跡が残っているだけだ。
 その跡を優しく撫でる。
「……なんですか?」
 くすぐったいのか、少し身を引きながらレイが問いかけてくる。
 いや、と呟きかけ――アドルバードはじっとレイを見つめた。


「キス、したいな、なんて――――駄目?」


 いつになく良い雰囲気に流されて欲望を口にする。
「駄目です」
 しかしきっぱりと拒否されてアドルバードは少しへこんだ。レイはタオルを絞ってアドルバードの額から流れた汗を拭う。
「今はちゃんと休んでください。まだ熱があるんですから」
 まぁ、看病されるという立場も悪くないかとアドルバードは大人しくベットに沈む。
 すぐにまた睡魔がやってきて、瞼が重くなる。優しいレイの手が髪を撫でて、心地良いな、なんて思う。





「今日はもう、しましたからね」




 それが何のことなのか、夢の中へ旅立つアドルバードには分からなかった。





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