可憐な王子の騒がしい恋の嵐

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52


 夜半に目を覚ましたアドルバードはそのまままた眠りについた。正確には寝かしつけられた――他でもない彼の騎士であるレイに。
 心配させてしまったせめてもの償いだとアドルバードも大人しく従った。


 眠るアドルバードを見つめて、レイは淡く微笑む。
 油断できるほどの余裕もなく、レイは眠ったアドルバードの傍らでその寝顔を見つめ続けた。まだ熱の残るアドルバードの額に冷たいタオルをのせる。
 漆黒の闇に光が差し込む。月が地平線の彼方へと消え、太陽が顔を出す準備が始める、そんな早朝だ。
 レイは静かに立ち上がり、扉へと向かう。


「――――レイ?」


 物音で起きたのだろうか、アドルバードがまだ夢の中にいるような、ぼんやりとした目でレイを見つめていた。ほとんど寝ぼけているんだろうな、と思いながらレイは主に向かって微笑む。
「すぐに戻ります。まだ起きるには早いですよ」
 アドルバードはああ、と唸るように答え、またベットに横になった。
 変なところで勘がいいな、とレイは苦笑しながら今度こそアドルバードの部屋から出ていく。
 廊下のひんやりとした空気に身が引き締まるような気がした。
 こつこつという自分の足音だけが響き、レイはしばらく歩いて立ち止まった。自然と腰に下げている剣に触れる。




「ああ、やっぱり来たか」


 そう言って笑うのは――アヴィランテの皇子、ヘルダムだ。
 解毒薬をレイに渡したときとなんら変わらぬ姿で、あの時会った場所に同じように立っている。
「なんとなく、居そうな気がしたので」
 レイが答えると、ヘルダムは満足げに笑う。この男の仮面はまさしくこの笑顔なのだろう。
「――王子様は大丈夫だった? と聞く必要もないか。無事じゃないならあなたはここに来ないだろうし」
「あなたを完全に信じてすぐにアドル様に飲ませるような愚は犯しません」
 きっぱりとしたレイの言葉に、賢明だねとヘルダムは笑みを浮かべて呟く。
「ならば剣から手を離してもらってもいいんじゃないかな。俺は王子を殺すつもりはないよ。今も以前も、そしてこれからも」
 あまりにも断定的なセリフに、レイは戸惑う。
 ヘルダムは壁にもたれたまま、レイの反応を待っていた。彼には武器がない――レイは剣からそっと手を離した。
「――どうも、と言っておこうかな。それで、あなたは何が知りたくてここに来た?」
 レイを見るヘルダムの目は底知れぬ闇のように暗い。笑っていてもどこか嘘くさく感じるのはその目のせいだろう。


「あなたの目的は何です?」


 この流れでいけばアドルバード暗殺を目論んだのはヘルダムではないということになる。もちろん、一度こちらを信用させておいて後に裏切るという可能性もあるが、二度手間になる。狙いがアドルバードだったのなら、わざわざ解毒薬をレイに渡す必要はない。そのまま死ぬまで待てばいい。
 狙ったのがシェリスネイアだった、という可能性はどう足掻いても消えない。シェリスネイアを狙ったが、的が外れた――そう考えることは可能だ。しかし少なくともアドルバードの敵ではない――レイにしてみればそれだけで十分だ。万が一シェリスネイアの暗殺を計画していようと、その火の粉がアドルバードに降りかからないのなら問題ない。
「シェリスネイアから聞いているんじゃないかな。彼女を殺そうとしているのは俺だと」
 飄々とした顔でヘルダムは答える。
「あなたの答えを求めているのであって、シェリスネイア様の言葉を聞きたいのではありません」
 簡単に誤魔化されるレイではない。隙を与えないように、間髪入れずに言い返す。
 レイから見れば、シェリスネイアの考えは偏っている。それはアヴィランテの人間はすべて悪だと考えているようにも感じるほどに――彼女はアヴィラを嫌悪している。
「あなたはどちらの言葉を信じる?」
「私が正しいと思った方を」
 レイが即答すると、ヘルダムは笑みを深めた。それは仮面ではない、素直な笑顔だ。しかしそれでいて人を見透かすような笑顔だった。
「あなたのような人と話していると心地いい。シェリスネイアも懐いただろうね」
 答えに困るセリフに、レイはただ黙った。その反応も面白いのか、ヘルダムは目を細める。
「主に伝える伝えないはあなたに任せよう。ただ俺が言えるのは、俺はシェリスネイアを殺さないということだけだ」
 きっぱりと言い切られた言葉に、レイは偽りは感じなかった。





   ■   ■   ■





「――――――レイ?」


 アドルバードの部屋に戻ろうと廊下を歩くレイを呼びとめる者がいた。鈴の音のように軽やかで、美しい声。
 振り返ればそこには朝日を浴びて立つリノルアースがいた。赤みがかった金の髪がきらきらと輝いている。
「リノル様。どうなさったんです、こんな朝早く」
 ようやく太陽は昇ったが、動き出しているのはせいぜい使用人くらいだろう。貴族や王族は朝の遅い生き物だ。
「目が覚めたから……レイがこんなところにいるってことは、アドルはもう大丈夫なのね?」
 ええ、とレイが微笑む。アドルバードが意識を戻したのは深夜だったのでリノルアースに伝えに行くのは朝にしようと思っていたのだ。
「これからアドル様の部屋へ?」
 ならご一緒しましょうか、とレイが言うとリノルアースはただ頷いた。アドルバードが目を覚ました今、リノルアースが悩むことはないと思うのだが――つい先ほどまで一緒にいた人物を思い出してレイはリノルアースの表情をうかがう。もしかしたら、彼女なりに何か掴んだのかもしれない。
「何か、ありました?」
 静かに問うと、リノルアースは困ったように微笑む。
「隠し事できないわね、レイには」
 ぴた、とリノルアースは立ち止まる。気がつけばアドルバードの部屋の前まで来ていた。
 レイが扉を開け、リノルアースは当然のように先に部屋へ入る。奥の寝台で横になっているアドルバードはまだ眠っているようだ。
 そのアドルバードをちらりと見て、リノルアースはソファに座る。


「カードを見せ合いましょう、レイ。どうやって解毒薬を手に入れたのかしら?」


 不敵に微笑むリノルアースの前にレイは腰を下ろす。
 主が目を覚ますまで、まだ十分な猶予があるだろう。
 ふぅ、と息を吐いてレイはリノルアースと向き合った。二人とも目が合うと、一瞬だけ微笑む。
「どうぞ?」
 リノルアースに促され、レイは口を開く。
 いくら相手がリノルアースだとしても手札のすべてをすぐには明かさない。今ここで語るのは、リノルアースが問うたことだけ。
 それ以上は――リノルアースの出方次第だ。






「――――王子の、意識が戻った?」


 シェリスネイアにその知らせが届いたのは朝、目覚めてすぐだった。
 ほ、と安堵の息を吐く。


「そう、良かった……」
 そう呟くシェリスネイアの大きな瞳から、ぽたりと一滴の雫が落ちる。
 落ちた雫にほんの少しだけ驚いて、シェリスネイアは染みの出来たドレスを見つめた。
「――――――良かった」
 もう一度呟かれた言葉はどこか空々しい。


 水滴は頬を伝い、もう一つ染みを増やした。




 ――――涙の理由は、本人しか知る術がない。




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