可憐な王子の騒がしい恋の嵐

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59

 最初は、ただの勘違いだった。


 もう随分と昔だ。
 十年くらい前のことだろうか。
「お兄様っ!?」
 アヴィランテの王宮の、東の宮にある小さな庭だった。散歩していたヘルダムの後ろから、そんな声が聞こえた。
 振り返った先には――愛らしい五歳くらいの女の子がいた。黒い髪は艶やかで、黒く大きな瞳が印象的だった。一目で将来は美しい女性になるだろうと分かるような、そんな女の子だ。
 着ている服は上等なもので、ヘルダムはたぶん半分血の繋がった妹だろうと思った。
「お兄様!? お兄様なのでしょう!? お母様がいつもおっしゃっていました! お兄様は綺麗な緑色の目をしていたって!」
 少女は嬉しそうにヘルダムを見上げて、はしゃぐようにそう言っていた。
「お母様がずっと悲しそうにしていたから、だからシェリスネイアはお兄様を探していたんです! ここまで遠くにきたのは初めてで、だからお兄様を見つけられたんですね!」
 勢いに押されそうになりながらも、ヘルダムは彼女の探す『お兄様』が自分ではないと悟っていた。自分には同じ母を持つ兄弟はいない。アヴィランテでは同じ母を持たない限り兄妹の意識は生まれにくい。
 そしてシェリスネイアという名にも覚えがあった。
 最近父のお気に入りだという姫君の名と一緒だ。確か、この子の母親は上に皇子も産んでいたはず――その皇子が生きているか死んでいるかは覚えていないが。
「シェリスネイア、だね?」
 ヘルダムはシェリスネイアと目線を合わせるようにしゃがんだ。
「はい! 私の名前はシェリスネイアです! お母様がつけてくださりました!」
 はきはきとした、元気な子だな、とヘルダムは優しく微笑んだ。
「ごめんね。俺は君の探してるお兄さんじゃないよ。僕の名前はヘルダム。お兄さんとは違う名前だろう?」
 シェリスネイアに分かるように、優しく説明するとシェリスネイアの顔はどんどん曇っていった。
「お兄様じゃ、ないの?」
 がっかりした顔は、先ほどまで嬉々として笑っていたから余計に悲しそうだ。
「半分はお兄様かなぁ。俺のお母様と君のお母様は違うからね」
 慰めるようにシェリスネイアの頭を撫でる。
「シェリスネイアにはお兄様がいたって、お母様がずっと悲しそうにおっしゃるの。お兄様がいればって、ずっと、おっしゃってるの。だからシェリスネイアが探してあげようって……」
 大きな瞳に涙を溜めながらそう言うシェリスネイアを見て、一人前に兄のような気がしてきた。
 アヴィランテという国でなければ、もっと早く、兄としてこの子と出会えていただろう。
「じゃあ、手伝ってあげるよ。二人で探そう?」
 この小さな女の子の涙を止めたくて、ヘルダムはそう微笑んだ。
 大きな瞳がなお大きく見開かれ――やがて満面の笑顔になった。




 たぶん、お兄様と呼ばれたあの瞬間に、ヘルダムはシェリスネイアの兄になっていたのだ。






   ■   ■   ■





 どうにか一曲踊ってきたシェリスネイアは、一瞬嬉しそうに微笑み、そのあとすぐにその笑顔は翳った。
「――どうした?」
 ウィルザードはシェリスネイアをダンスの輪から連れ出し、注目する王子達を牽制するかのように影を作った。
「なんでも……少し、疲れただけです」
 それが嘘だというのはすぐに見抜けたが――ここで注目を浴びるシェリスネイアを尋問するのは難しそうだ。
 それならとウィルザードはバルコニーに出る。シェリスネイアも手をひかれ大人しくついて来た。寒いが人目は避けられる。
「……どうした?」
 もう一度シェリスネイアを見下ろして問う。
「疲れただけだと、申しませんでした? ――――独りにしてくださらない?」
 話すのも億劫だと言いたげにシェリスネイアは無理に笑う。
 共に踊っている間はとても楽しそうに笑っていたと思うのだが――女は本当によく分からない、とウィルザードはため息を吐きだす。
「俺が、あんたの望むように動くと思うか?」
 どうにか言えた言葉は甘さの欠片もない。いつもいつも憎まれ口ばかりになってしまうのは習性なのか、と苦笑する
「思いませんわ。あなたは本当に、いつも私の予想にないことばかりなんですもの」
 だからこそ、惹かれたのだろうけど。シェリスネイアは心の中でひっそりと呟く。
「なら、できない相談だ」
 こんなシェリスネイアを独りになんて出来ない――ウィルザードの本能がそう告げていた。
 そうでしょうね、とシェリスネイアが儚げに笑う。
 そう言って吐き出す息は白い。雪こそ降っていないものの、いつ振り出しても可笑しくないほど気温は低い。
 風邪をひいてしまう。そう思うと反射的に身体は動いていた。上着を脱いでシェリスネイアに着せようと――そう動いた腕を、そっとシェリスネイアが止める。


「――あなたに出会わなければ、決意がこんなに揺らぐことはなかったでしょうね」


 何のことだろう、とウィルザードはシェリスネイアを見下ろした。
 シェリスネイアは寄りかかるようにウィルザードに寄り添い、淡く微笑む。その黒曜石の瞳が濡れているように見えるのは、錯覚なのだろうか。
 『どうした』と三回目の同じ質問を紡ごうとした、その唇に柔らかい何かが重なる。目の前に――数センチの差もない距離に、美しい顔があった。
 重なり合ったのはほんの一瞬だった。
 けれどウィルザードには長く長く感じた一瞬だった。


「それでも――あなたに出会えて良かった」


 ぬくもりが去ったあとの、切ない目にウィルザードは射抜かれた。
 言葉を紡ごうとしても、驚きと衝撃で何も出てこなかった。悲しげに笑うシェリスネイアの顔だけが目に映る。
「ありがとう、ウィルザード」
 そう言って微笑みながら、シェリスネイアは「さようなら」と続ける。
 さっと身をひるがえす、そのシェリスネイアを捕まえようと手を伸ばした。行かせてはいけない、彼女を独りにしてはいけない、そんな本能がウィルザードの中で警鐘を鳴らす。




「――――シェリスネイア!!」




 叫びはシェリスネイアをつなぎ止める楔とはならず、彼女は逃げるようにバルコニーから去っていく。捕らえようと伸ばしたウィルザードの手がその場に残したのは、シェリスネイアの髪に飾られていた白い薔薇一輪のみだ。









 シェリスネイア、と叫んだ声が耳に残る。





 もう、思い残すことなんてない。
 もう十分だ。




 十分に私は幸せだった。








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