グリンワーズの災厄の乙女



 それから少しもしないでレギオンは朝ごはんを持ってきた。
 その時にはマダムの姿はなかったのだろう。ただベッドに座って待っていた私が静かなことに首を傾げ、熱はないかと手を伸ばしてくる。
 大丈夫だよ、と笑うが、レギオンは納得していないようだった。
 そのまま静かに食事を始め、何を食べたのかもどんな味だったのかも分からないままに食器は片付けられた。





 ――人々から存在しないものとして無視され続けて。
 自分の名前を忘れてしまうほどに誰かから名を呼ばれることもなくなって。
 言葉を失うことを恐れて大人に怯えながら夜な夜な歌を歌って。
 私と、こういう世界に生きている少女達と、どちらが不幸だったんだろう。
 二つは同じもののようで、まるで交わらない別のもののようで。
 天秤にかけても重さは等しくならない。私は今までの人生が幸せだったとは笑えないけれど、それはたぶん彼女達も同じなのだろう。
 それでも確かなのは。

 「災厄の乙女」の生み出した不幸はこの国に溢れているのだ。

 ドレスの上から深くマントのフードを被り、隣を歩くレギオンからも私の顔が見えないように俯いた。
 様子が可笑しいということに気付き始めたレギオンは先ほどからこちらを窺うように視線を投げてくるけれど、それに気づきながら私は無視を続けた。
 溢れ出た『災厄の乙女』という不幸は、この国を狂わせてしまった。
 その元凶である私は、どうしてこんな場所にいるんだろうと自問自答する。
 そして、どうしてレギオンは私をここに連れてきたんだろう。どうして、あの場所を私に教えたんだろう。レギオンがあの館がどういう場所なのか、そしてそこにいる彼女達がどういう人なのか、知らないはずがないのに。
 知っていたはずなのに、どうしてそれを見せつけるように私を――。
「マリーツィア」
 痺れを切らしたような声がすぐ隣から降り注いだ。
 見上げると、少し苛立ったような顔でレギオンが私を見下ろしている。
「何があった」
 俺の知らない間に、とその言葉を口に出さないのは、信用なのかそれとも突き放しているのか。
 そんな些細なことですら疑心暗鬼になる自分に嫌気がさす。
 顔を上げると落ちそうになるフードを、落ちないようにとレギオンが直した。そういった優しさにすら、こっちは泣きたくなるっていうのに。

「……レギオン」

 まるで捨てられた子猫の鳴き声のような、か細い声しか出なかった。
 それでもレギオンは雑踏の中で確かに私の声を聞いてくれる。
「どうして、私をここに連れ来たの?」
 質問の後に、片割れしか伺えないレギオンの紫色の目が大きく見開いた。しかしそれも一瞬のことで、すぐに平静さを取り戻す。
「……聞いたんだな」
 確かめるまでもない、ただの呟きだった。
 こくりと一度頷くと、レギオンは深く息を吐きだした。そして小さく「まだ教えるつもりはなかったんだけどな」と自嘲気味に呟いた。
「どうせマダムあたりだろう、そんな余計な話をするのは」
「……余計じゃないよ。私は部外者じゃないんだから」
 あの館にいる女の人が、ああいう仕事をしているのは――『災厄の乙女』のせいなのだから。
「部外者だろう。間違えるなマリーツィア。おまえがいようがいなかろうが、災厄の乙女がいようがいまいが、ああいう場所は確実に存在している。子供を売る親が悪いし、子を売らなければ生活できないような世の中が悪い、そして人を商品として扱う奴が悪い。おまえには非がないんだよ」
「でも」
 抗議しようと口を開くけれど、それもすぐにレギオンの言葉に遮られた。
「罪があるとすればそれは大神官一人の罪だ。おまえは被害者だし、彼女達もある意味で被害者なんだろう。容姿は選別の一つの要因に過ぎない」
 きっぱりと言い切られると、それ以上に反論する気力を奪われる。
 ただ俯いて黙り込むと、レギオンが少し乱暴に私の腕をひいた。
「何度も言わせるな。おまえは災厄の乙女じゃない」
 強引に腕を引かれて、賑わう人混みの中をすたすたと歩いて行くレギオンに私はついて行くのが精一杯だ。
「俺はおまえを責める為にここに連れてきたわけじゃない。おまえがこの場所を覚えておくべきだと思ったから連れてきたんだ」
 前を歩くレギオンの顔は、私からは見えない。ただ切々と語られる言葉があまりにも強くて、どこか悲しくて、それだけで胸が痛くなった。
 いつの前にか、そこは甘い誘惑の街の入口だった。
 真昼のそこは甘い香りだけを漂わせてしんと静まり返っている。まるで昼夜が反転してしまったかのようだ。
「忘れるな、マリーツィア」
 隣に立つレギオンが真っ直ぐに前を見て言った。
「不幸だったのはおまえだけじゃない。その種類に違いはあったとしても、誰にだって悲しみも辛さもあったんだ。どう足掻いてもこういった場所は消えないし、消せない。ここに集まった人にもそれなりの過去があって、ここに来た理由がある。それのすべてをおまえが自分の罪だと背負う必要はない」
 繋がれた手がぎゅ、と強く握られた。
 まるでもう一人じゃないと言ってくれるようで、じんわりと涙が滲む。その強さに応えるように強く手を握り返した。
「……それに、不幸ばかりがあるわけではないしな」
 そう呟いてやっとレギオンは私を見た。苦笑しながら頬を流れる涙を空いている手で拭ってくれる。
「ここにいた奴らの笑顔に、嘘はなかっただろう?」
 マリー、と呼んで私を連れ出したラナさんの笑顔は、たぶんお客さんに向けるものとは違ったんだろう。ドレスを着せてくれて、髪を結ってくれている間のラナさんはずっと笑っていた。そこには何の影も曇りもない。
「おまえはこの王国を捨てていく。俺にはもうその覚悟はあるが、それでもおまえにはまだ選択の余地があるはずなんだ」
 涙で濡れた目でレギオンを見つめながら、私は静かに首を横に振った。
「選択なんて、する余地はなかったよ。私はこの髪とこの瞳でいる限り、この王国では暮らせない」
「――本当にそう思うか?」
 レギオンが苦笑いしながら問いかけてきた。
「ただ暮らすだけなら、どこにでも場所はある。こういう闇に近い街の裏もどこにだってあるし、時間はかかるだろうが小さな村や街でなら居場所を作ることもできるだろう」
 方法なんていくらでもある、とレギオンは残酷にもここで選択する道を広げるのだ。まだ何を選択すれば分からないでいる私に。どんな未来があるかも、どんな道があるのかも、その可能性すら信じられない私に。
「おまえはこの国の一部しか知らない。捨て去る前に、見ておくべきだろう。王都の賑わいも、その街の中にある闇にも。……俺はおまえに後悔させたくはないんだ」
 後になって全てを捨てて後戻りできなくなった時になって、あの時にあの道を選んでいれば、あの道に気づいていれば、なんて。
 そんなことを、未来の私に言わせない為に。
 止まりかけた涙がまた溢れ出して、私はレギオンの胸に縋りつく。
 どうしてこの人はこんなに優しいんだろう。
 その優しさに慣れてしまったら、もう離れることなんて不可能に違いない。そしてもう私はその優しさに甘えてしまっているんだ。

「……後悔、しないよ」

 レギオンの胸に顔を押しつけながら、くぐもった声で私は答える。
「どんな場所を選んでも、どんな道を歩いても、隣にレギオンがいるなら、後悔なんてしない」
 私が選ぶ住処がどこであるにしても、居場所はレギオンの傍だから。その選択だけは、私は後悔しないと誓えるから。
「――おまえな」
 どこか困ったような、レギオンの声。
 慰めるように髪を撫でていた手が背に回る。大きな腕に包み込まれて、その中のぬくもりに私は心の底から安堵した。
 本当に、末恐ろしい女だよ。
 諦めにも似たレギオンの言葉に、私はただ首を傾げるしかなかった。

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