グリンワーズの災厄の乙女



 自分の生まれ育った村が近くなるにつれ、眉間に皺が寄っていくのが分かった。ヒルダと一緒に過ごした時間よりも、変わり果てた姿で横たわるヒルダの姿の方が鮮明に脳裏に焼き付いている。
 いつまで過去に縛られているつもりだ、俺は。そう自分自身を笑っても、足は重石をつけられているように重くなっていく。
「レギオン」
 名を呼ばれてはっとすると、目の前にマリーツィアが立っていた。必死で手を伸ばして、人の眉間をつつく。
「ここ、癖になっちゃうよ?」
 どうやら皺の寄った眉間をどうにかしたいらしい。しかし身長差のせいか、指で皺を伸ばすまではできないようだ。
「……もうなってる」
「嘘。いつもはこんなになってないよ」
 知っているんだから、と胸を張るマリーツィアに苦笑する。そんなに言い切れるほど一緒にいるだろうか。彼女と出会って一年と少し。共に過ごした時間はもっと短い。
 苦笑すると、今度はマリーツィアが眉間に皺を寄せた。どうやら機嫌を損ねたらしい。
「……そんなに、嫌なの?」
 眉間をつついていた指は、するりと移動して俺の頬を撫でる。その時に眼帯に触れるのはもう彼女の癖らしい。こういう時は、少女というより女の顔になるんだな、とまた苦笑した。
「嫌という問題じゃないな。もう、染みついているんだ。あの村から逃げるのが」
 情けないことに、と言うとますますマリーツィアは眉間に皺を寄せる。なるほど、これが癖になるとさすがに俺も見るに苦しいかもしれない。
「私は、故郷なんて分からないけど」
 じっと見上げてくる深緑の瞳が、悲しげに揺れる。
「故郷って、いつでも帰れる、どんな自分も受け入れてくれる場所だと思っていた」
 物心つく前にあの迷いの森に連れていかれたマリーツィアは、自分の生まれた場所を覚えていない。それどころか、母親の顔さえも記憶にないのだ。彼女の生まれたところへ連れていくことは出来るのに、彼女は俺の申し出をきっぱりと断った。
 ――私が行っても、意味はないだろうから。
 なんとも言えない表情で、マリーツィアはそう言った。今さら行ってみたところで、何か感じるわけでもない。母親と会っても、母親と思えないかもしれない。それ以上に、自分が生まれた村に姿を現わせば『災厄の乙女』の不在が知れ渡ることになるかもしれないから、と。
「そういう場所を、見つければいい」
 マリーツィアの頭を撫でてそう言うと、彼女は嬉しそうに笑った。


「レギオンの生まれたとこって、どんなところ?」
 ゆっくりと歩きながら、マリーツィアは俺を見上げて問う。聞きたくても今まで遠慮して聞けなかったんだろう。
「何もないところだ」
「そんなわけないよ。いろいろあるでしょ? 山があるとか、川があるとか、果物が美味しいとか」
 誤魔化そうとしたのがバレたのだろうか、マリーツィアは頬を膨らませながら抗議してくる。
「……少し遠くに山が見えたよ。秋の終わりには雪をかぶっていた。その山から流れてくる川も近くにあったが――そうだな、果物が特産っていうのはないな」
 残念だったな、と茶化すとマリーツィアは不本意そうに唸る。
「別に果物が目当てじゃないもん。他には?」
「他に、ねぇ……」
 催促されて、生まれ育った村を思い起こす。田舎の村だ。あるのは小さな雑貨屋くらいで、ほとんどは農業なんかで生活していた。小さな自警団もあったが、平和そのものの村で必要になるのは酔っ払い同士の喧嘩の時くらい。一部には山まで行って狩りをしてくる人もいた。
 そう、王都に比べると、静かで、穏やかで、時間がゆっくりとしていた。そして――。
「……空が、広い場所だよ」
 無意識に空を見上げて、そう呟いた。
 マリーツィアはきょとんとした顔をして、そして花のように笑う。
「素敵ね!」
 そんな一言で、胸の中でざわついていたものが落ち着いていく。不思議だな、と思った。村を思い出すたびに蘇るのは狂ったような人だかりと、冷たい妹の身体だけだったのに。
 王都の雑然とした街並みに比べて、建物の数すら少ないあの村は――見上げた時、途方もなく広い空があった。そんなことを今さら思い出すなんて。
 マリーツィアはすっかりご機嫌で、鼻歌まじりに歩いている。王都の館に滞在していた間に覚えたのだろうか、グリンワーズの塔で聞いたあの歌以外の歌を、最近ではちらほらと聞くようになった。
 フードから零れる白い髪に、思わず魅入る。
 村に着く前に、染めてしまった方がいいんだろう。滞在するのは一日程度のつもりだが、どう転ぶかなんて分からない。念を入れるのなら、白い髪は隠し通すべきだ。
 この王国では災厄の象徴でしかないソレを。
「? レギオン、どうかした?」
 視線に気づいたマリーツィアが、俺を見て首を傾げる。なんでもない、と答えてからずれているフードを直してやった。
 どんなに面倒なことになろうと、今までその白い髪を染めろとは言わなかった。今まで否定され続けてきた彼女を、これ以上否定したくはなかったからだ。
 選択肢は二つある。俺が染めろ、と言えばおそらくマリーツィアは頷くだろう。笑って「いいよ」と言うんだろう。目の前の少女は、自分自身でも気づかずに想いに蓋をしてしまうから。
 守ればいい。その意志は尊いものかもしれないが、同時に驕りでしかない。事実過去に守れなかった人間としては。
「……髪、どうする」
 選択を彼女に預けようとして、自分の弱さに舌打ちした。最低だな、と。
「あ、染めた方がいい? 今までも宿屋とか良い顔されなかったもんね」
 道中、どうしようもなくて宿泊した宿屋を思い出したのだろう。フードで隠しているものの、零れ落ちたわずかな白い髪を目ざとく見つけた人間は、誰もが眉を顰めた。
「嫌なら別にいい。染めておいた方が安全かもしれないが」
 マリーツィアは自分の白い髪を引っ張って「うーん」と唸る。
「別に嫌じゃないけど……でも、出来れば染めたくないなぁ」
 珍しいマリーツィアの自己主張に、俺は目を丸くした。てっきりあっさりとした答えが返ってくると思っていた。
「レギオンの家族に挨拶するから。あんまり嘘はつきたくない」
 微笑むマリーツィアに、俺は何も言わなかった。ただ頭を撫でる。
「大丈夫だよ。この間みたいに危ないことはしないって約束するし! なんなら家で大人しくしていてもいいよ。字の練習もしたいし」
 聞き分けのいいマリーツィアに、複雑な気分になる。じゃじゃ馬でも困るが、ここまで『良い子』というのもどうだろう、と考えてしまう。このくらいの年頃の少女といったら、我儘を言いたい盛りだろうに。
「少しくらい、我儘言ってもいいんだぞ?」
 そう言うと、マリーツィアは「えー」と困ったように唸る。
「だって行き先変えたのも私の我儘だもん。十分だよ。……あ、そうだ! でもちゃんとレギオンの家族のお墓参りはさせてね! 約束!」
 行き先の変更はまだしも、墓参りが我儘か、と苦笑するしかない。にっこりと笑って子どものように指切りを要求する彼女に、大人しく付き合うしかなかった。

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