太陽の消えた国、君の額の赤い花

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10

 赤い。
 赤い光がノーアの目に飛び込んだ。


 眩しそうに目を細め、ノーアはその光に手を伸ばす。
 温かい、優しい赤。
 血の紅(あか)は嫌いだけど、こんな穏やかな赤は嫌いじゃない――どちらかといえば、好きだった。
 そうまるで、太陽みたいな――――。


「――――……ゲイル?」


 目を覚ましたノーアは、目の前に――今にも顔がぶつかりそうなほどの至近距離にいる青年を見て、驚いた様子もなく、ただ名前を呟く。
 飛び込んできた光はゲイルの赤い髪だったのか、なんてぼんやりと考えながら、何故かまだ夢を見ていると思った。
 だって、彼がここにいるはすがない。
 自分の寝室にいるはずがない。
 一方ゲイルは突然名前を呼ばれたことに、そしてノーアが目覚めたことに驚いて、しばらく思考が停止していた。
 伸ばしていたノーアの手が髪にそっと触れてきて、意識も戻る。
「目が――覚めたのか」
 ほっと安堵したように、ゲイルは優しく微笑んだ。
 つられてノーアも幸せそうに微笑む。
「夢を……見てたわ」
 これも夢なのに、とノーアは誤解したまま、額がぶつかりそうなほどに近くにいるゲイルに話しかける。
「とても、都合のいい夢――……もう、あなたを恨まなくていいと。私が幸せになればそれでいいんだと、言われたわ」
 ノーアはそう言いながら嬉しそうに微笑んだ。翳りのない、綺麗な笑顔だ。
 ゲイルは少し迷いながら、そっとノーアの頬に触れた。彼女は嫌がる素振りもせず、ただゲイルを見上げていた。
「……誰に?」
 そうゲイルが優しく問いかける。
「……陛下よ、それと――……」
 すべてを言い終える前に、ノーアの瞼は再び閉じられた。
 規則的な寝息まで聞こえてくれば、問い詰めようがない。
 ゲイルは苦笑して、ノーアの額に口づける。毎日何回か、密かに続けられた行為だった。
 実は今さっきも額に口づけた直後で、ノーアが目を覚ましたことに喜ぶよりも先に動揺してしまった。


 ノーアが刺され、意識を取り戻すまで、二日かかった。






 初めて、名前を呼ばれた。
 もう恨まなくていいと、そう言われた夢を都合の良いと――つまり彼女も本心では、もう恨みたくないのだ。自分を。オルヴィスを。
 都合の良い夢を見ているのは自分じゃないだろうか。
 本当は彼女の意識はまだ戻らずに、眠っているんじゃないだろうか。
 彼女が微笑みながら名前を言ったのも、幻じゃないだろうか。
 しかし今目の前で眠っているのはノーアで、一度ゲイルの髪に触れた手はぱたりと落ちている。布団から出た右手だけが、ノーアがほんの一瞬目覚めたことを証明してくれている。
 王子様からじゃないキスも、少しは効くらしい。

「国王陛下、様子見もそれくらいにしていいかげん仕事――……なんかあったのか?」
 勘の鋭い幼馴染に、ゲイルは緩んだ頬を直すこともできずに素直に頷いた。
「聖女が今、ほんの少しだが起きた。意識が戻ったみたいだ」
 へぇ、とロハムは眠るノーアの顔を見る。
「まぁ、顔色もいいし、呼吸もしっかりしてる。もう大丈夫みたいですねぇ、聖女様」
「――――ああ」
 思わず微笑みながら、ゲイルは答える。
 ついさっき起きた出来事を噛み締めることで精一杯だ。
「じゃあ陛下、いいかげん城に戻りますよ」
「――は?」
「は? じゃなくて。聖女様の目が覚めるまでは大目に見ましたが、もう見逃せません」
 ロハムはゲイルの腕を掴み、引きずるように部屋から出る。
 二日間城に戻らなかったことで、多少なりとも仕事が滞っていることは確かだ。
「休暇は終わりか。短いな」
 ため息を吐き、ゲイルは大人しく城に戻る支度を始める。
 正直ノーアのことはまだ心配だが、また仕事の合間に様子を見に来ればいい。
「二日うるさい爺どもの相手をしなくて済んだだけ、良しとしたらどうですか」
「代わりに今日たっぷり厭味を言われるわけだ。まぁ、覚悟の上でやったんだが」
 今日の彼女の笑顔と、言葉だけで、それらに耐えるのは充分過ぎるほどの活力だ。
「一応、俺はあんたの味方ですよ。国王陛下」
 幼馴染の遠まわしな声援に苦笑する。
「耄碌爺に負ける気はない」
 きっぱりとゲイルは宣言し、ロハムは不敵に微笑み返す。
 ノーアを手放すつもりは、もう欠片ほどもなかった。






 ノーアは目を覚ました途端、腹部に痛みを感じた。
 顔を顰めて、起き上がろうとするが力が入らない。諦めて大人しく頭を枕に預けた。
 長いような、短いような、夢を見ていた。
 あれは本当に楽園だったのだろうか。本当の、陛下とジルダスの言葉だったのだろうか。
 そして――あの赤い髪に触れた。ゲイルの、あの優しい赤に。思っていたよりもさらさらとして柔らかかった。
 間近で見下ろされながら、壊れ物にでも触れるかのように優しく頬に触れてきた。大きくて、温かなてのひら。傷跡の有無を確かめるのを忘れてしまった。
「ノーア様! お目覚めになったんですか!」
 明るい声が聞こえてきて、枕元までセリが駆け寄ってきた。
 そして自分でも、現実に戻ったのだと気づく。今までどこかぼんやりとしていた世界がはっきりと形作られる。
 ニルに刺されて、そして――。
「……私は生きてるのね」
「ええ! 本当に良かったです。二日も意識が戻らずに、大変だったんですよ。陛下は城に戻らないと言ってここでお仕事をなさってましたし――」
 セリは喜びのあまりにいつもより少し早口だ。その早口のセリフの一部に、ノーアが、え? と聞き返す。
「……オルヴィス王が、ここにいるの?」
「いえ、もうお帰りになられました。一度ノーア様もお気づきになりましたし、命に別状はないということでしたので。まぁ、半ば強引に臣下の方に連れて行かれました」
 ノーアが目を丸くする。
 一度、目が覚めた? ……自分が?
 では――――――
「あれは、夢ではなかったの?」
 そう呟いた途端に、事実が脳内に伝達され、体中が熱くなった。顔が火照って、赤く染まる。腹部から伝わる痛みすら気にならなくなるほどに、ノーアは混乱した。
 どこから、どこまでが?
 まさか名前を呼んだ、あの瞬間には自分は目覚めていたのだろうか?
 ――――恥ずかしい。
 何故か無性にそう思った。
「ノーア、様?」
 セリが首を傾げてノーアを見つめてくる。
「な、なんでもないわ。なんでもないの――」
 必死で真っ赤になった顔をどうにかしようと試みても、どうにもならない。ノーアの穏やかな人生の中でここまで顔が赤くなったのは熱を出した時以外にあっただろうか。
「? 熱でもあるのでは――お医師様を呼んできますね。ノーア様は安静になさっててください!」
 セリが慌てて部屋を飛び出した。
 静かになった室内で、ノーアはこっそりため息を零す。


『……もう、あなたを恨まなくていいと』


 そう、本人に言ってしまった。
 次にどんな顔で彼に会えばいい?
 彼の后になるくらいなら舌を噛んで死ぬとまで言い切った相手だ。
 嘘じゃない。そう、嘘ではないから余計に困る――。




 ゲイルがもう月の塔にいないことに少し安堵しつつ、少し寂しく感じる。


 声が聞きたい。顔が見たい。触れたい。触れられたい。




 そう思うは何故なのか、それがどんな感情なのか、ノーアはまだ知らなかった。






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