太陽の消えた国、君の額の赤い花

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 ノーアが重たい瞼を開けて、一番初めに飛び込んできた色。
 銀の髪。
 青い炎のような瞳。
 それはノーアにとって馴染み深い人の色彩。


「――……アジム?」


 柔らかく微笑んでノーアが呟くと、『アジム』は困ったように微笑み返した。
 アジムはそんな風に笑わない。いつもノーアが呼んだ時には優しく、そして自信に満ちた笑顔を見せてくれるのに。
「……あなたに間違われたのは初めてですね。ノーア様」
 その声もアジムのそれとよく似ていた。けれど違うと、ノーアは断言できる。アジムはノーアを様なんてつけて呼ばない。
「……ジルダス?」
 そうして辿り着いた答えは、アジムの影武者であり、彼の代わりに処刑された青年だった。ジルダスはまた、困ったように微笑む。
「ではここは楽園? ――ああ、やっぱり私は死んだのね? 」
「……はい、そしていいえ。ここは楽園――死者の国です。しかしノーア様は死んでいません」
 ふわ、と風が吹いた。
 甘い花の香りが鼻腔をくすぐる。ノーアが横たわっていたのは花畑の中だったようで、ノーアとジルダスを囲むようにたくさんの花が咲き乱れている。
「死んでない? だってここは楽園なんでしょう? そして私は楽園にいるんでしょう?」
「ノーア様の身体はまだ地上と繋がってます。今ならまだ戻れる。――ご案内します」
「いらないわ」
 立ち上がり、優しく手を差し伸べたジルダスに、ノーアはきっぱりと答えた。
 ――自分は死んだほうがいい。その方がいい。いろんな人のためにも。
「……ノーア様、アジム様と約束なさったんでしょう?」
 諭すように優しくジルダスに囁かれ、ノーアは驚いたように顔をあげてジルダスを見つめた。
 それは、ジルダスが知るはずのない約束だ。


『――アジム、約束して? また会おうって。そのときはオアシスの姫も一緒に』
『分かった、約束しよう』


 ノーアの喉がからからに渇いていた。
 言葉が上手く出てこない。
「……それは」
 アジムを逃がすための、偽りの約束だ。
 初めからノーアは守ろうと思っていなかった。その時には自分の命を絶つ覚悟を決めていたから。
「約束は守らなければ駄目だと、教わったでしょう。もう子供じゃないんですから、きちんと守ってください」
 ジルダスはかがみ、座り込むノーアと視線の高さを合わせる。
「――……ジルダス。私には分からないの」
 ノーアは服の裾を握り締めた。
 駄々をこねる子供のように、感情に任せて言葉を吐き出した。
「どうすればいいの? あの人を信じなければいいの? 私が死ねばいいの? でも――でも私もう分からない。あの人を心の底から憎むことができない。だって本当に、優しく笑うの。私のことをそっと見守ってくれるの。悪い人だなんて思えなくて――私は何をすればいいの? あの人の后になるの? そうしてもいいの? それでイシュヴィリアナの人達は怒らない? ニルは怒ったのよ。あの人の名前を言ったから。親しくしてしまったから。だから私のこと――――」
 刺したのよ、と最後は力なく呟いた。
 ああ、本当に子供みたいだ、とノーアは冷静な部分で苦笑する。
 でもこうして吐き出したかった。誰かに聞いて欲しかった。それはゲイルでも、セリでも、アジムでもいけなかった。大人になろうと常に無理をしてしまうから。だから――自分の中で渦巻く感情を口に出せる相手なんて、どこにもいなかった。
「……ノーア様の、望むように」
 優しく微笑んで、ジルダスは答えを教えてくれた。
「わたし、の」
 望むことはなんだろう、とノーアは思った。
 今まで恵まれた環境で育ったのだと思う。食べ物に困ることも、ぼろぼろの服を着ることもなく、月の塔という箱庭で大事に大事に育てられた。
 ノーアは聖女で、人々の信仰の対象で、常に気高く、美しく、そして常人であってはいけなかった。そう言い聞かせていた。
 ――小さな頃、月の塔の外に出たいと願った。
 でもそれは無理だった。聖女は月の塔を離れることは許されない。
 ――アジムのように、恋がしたいと思った。
 でもそれは不可能だった。ノーアにはアジムという婚約者がいて、そしてノーアにはアジム以外に二人きりになる異性などいなかった。恋に落ちる機会が与えられなかった。
 無理だから、不可能だから、いつからか望むことを止めて、与えられるもので満足するようになった。
「…………憎むのは、もう疲れた」
 ぽつりと、ノーアが零した呟きに、ジルダスはただ相槌を打つ。
「許せないけど、許しちゃいけないけど、憎み続けるのはもう嫌なの」
 信じられないと、そう言った時の顔が頭を離れない。傷つけてしまった。
 本当は、もう少し彼の話が聞きたい。いつもただ黙って側にいるだけじゃなくて、彼がどういう人なのか、どんな風に育ったのか、知りたい。
 彼の名前を呼びたい。あの温かな太陽の名前。
 あの赤い髪に触れてみたい。手のひらの傷は、痕が残ってしまっただろうか……確かめてみたい。
 心の中に浮かんできた願いを口にするには曖昧で、ささやかで、そしてどうしてそう願うのかノーアには分からず、俯いた。
「分からない。どうすればいいの?」
「……したいようにすればいいんです。ノーア様、イシュヴィリアナに縛られてはいけない」
 躊躇うようにジルダスは手を伸ばし、ノーアの髪を撫でた。
 生前は、こんなことしなかった。することも許されていなかった。何故かここで座り込むノーアは、いつも以上に幼く、弱々しい生き物で、そうして慰めることが一番に感じた。
「ノーア様、遺された者がしなければいけないのは、復讐ではありません。相手を恨み続けることでも、拒み続けることでもない」
 さら、と髪を撫で続ける。
 ノーアは捨てられた子犬のように、無垢で無力で、ただじっとジルダスを見つめる。
「ノーア様も、アジム様も、イシュヴィリアの生き残りとして、生きなければいけません。生き続けなければいけません。簡単に生を手放してはいけないんです。長く長く生きて、誰かと寄り添って、そうして幸せになってください。……それが、ノーア様の使命です」
 それは至極簡単で、難しいことのように感じた。
 ジルダスは優しく儚げに微笑んでいて、ノーアの髪を撫でてくれた。それは思いのほか心地よく、ノーアは安堵していた。
「生きてください。ノーア様。死んでいった者達のために」
 ジルダスは髪を撫でていた手を離し、ノーアの小さな手をとって立たせる。自分の力で立ち上がるのはまだ出来ずにいたノーアは、少しふらつく。
 ジルダスの肩越しに、壮年の男性を見つけた。


「――……陛下」


 父のように慕っていた、優しいイシュヴィリアナ最後の国王。
 生前と変わらない優しい微笑みを浮かべたまま、ノーアを見つめていた。
 傍らには国王よりも少し若い女性がいた。おそらくノーアが会ったことのない王妃だろう。その隣に、幼い少女もいた。後ろには、どことなくアジムに似た青年が。
 イシュヴィリアナの国王一家だ。
「幸せになりなさい。ノーア」
 国王はただそれだけ、ノーアに言った。
 優しい微笑みに、涙が流れた。
 許されるんだろうか。
 ノーアが望むまま、幸せに生きていくことが。
「ノーア様、向こうの明かりまで歩いてください」
 ジルダスが指差す先に、明るい光が見えた。
「――……あなたは、後悔していないの?」
「何をです?」
 ノーアの問いに、ジルダスは微笑みで返す。
 なんでもないわ、と呟いて、ノーアは光を目指して歩いた。彼には後悔という言葉すらないのだ。
 光が目前に迫り、ノーアの身体を包み込もうとした瞬間、ノーアは振り返った。
 ただ穏やかに微笑み、見送ってくれる死者達に微笑み返す。


「――――……ありがとう」




 光はノーアのすべてを包み込んで、真っ白な世界に誘った。






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