太陽の消えた国、君の額の赤い花

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14

 ノーアの白く滑らかな腹部に、引き攣った傷跡が残った。
 セリはかなり嘆いていたが、ノーアは特に何も感じなかった。
 これは、自分の犯した過ちの証。忘れないようにとこうして身体に刻まれたのだろう。
 ニルに刺された傷も完治し、安静にしてろと口うるさく言われなくなった。
 ゲイルは足繁く月の塔に通い、ノーアの身体を気遣ってくれた。傷が治ったら、外に出ようといつも言い残した。




「どこに行きたい?」
 昼下がりの穏やかな日の光の下、芝生の上に腰を下ろしながらゲイルは隣に座るノーアに問いかける。
 外に出るのはやはり恐ろしい――しかしゲイルと一緒なら、平気ではないかと思うのだから不思議だ。
「……海が見てみたい」
 砂漠も見たいけど、と付け加える。
 しかし距離的には、手始めに海にしておくべきだろう。この大陸の六割は砂漠だが、国は海に面した平地にある。海路が発達しているため、王都も海の近くにあるのが普通だ。イシュヴィリアナも例外ではない。
「そうだな、砂漠よりは海の方が近いか。馬で行けばすぐだ。日が暮れる前に帰ってこれる」
 馬に乗れるか? と問いかけられ、ノーアは首を横に振った。
 月の塔からそう出ないのだから、当然だろう。ゲイルも答えが分かっていたから、驚くことはない。
「――――試しに乗ってみるか?」
 どうせ乗れなければ海に行くなど無理な話だ。一人乗りは出来なくとも、ゲイルと同乗することに慣れなければいけない。
 しかし、馬に乗るには月の塔の中庭では狭い。
 不安そうな顔のノーアを見て、ゲイルは苦笑する。
「この辺りを散歩する程度だ。すぐに戻る。徐々に慣れていけばいいと言っただろ?」
 確かにすぐに海まで出かけるのは無謀かもしれない。しかし心の準備というものができていなかった。
 立ち上がり、手を差し伸べるゲイルをノーアは座ったまましばらく見上げた。
 ほんの少し、出てみるだけ。
 大丈夫だろう。
 そう自分に言い聞かせる。外に出てみたいという気持ちがノーアの中で強くなっていく。
 差し出された手を握り、ノーアも立つ。手を握ったままゲイルの愛馬のもとへ行く――照れくさくて手を離したいとノーアは思うのに、ゲイルは強く握り締めたまま離してくれない。
「馬は、怖くないか?」
 ゲイルの問いに、ノーアは首を横に振る。
 女官の中には馬を怖がって近寄らない者もいるが、ノーアはむしろ動物は好きだった。馬は肉食獣ではないし、優しい目をしている。どうして怖がるのかと首を傾げるくらいだ。
 馬の首筋を撫でているノーアを見て、ゲイルも平気そうだと安堵する。
 ノーアを持ち上げて先に乗せ、ゲイルも軽々と馬に跨る。本当はノーアに後ろに乗ってもらい、ゲイルにつかまっていてくれる方が楽だが、ノーアは案外非力なので前に乗せてゲイルが落ちないように気を配る方がいいだろう。
 いつになく密着している状態に、ノーアは緊張した。
「俺にしっかりつかまってろ、じゃないと落ちるぞ」
 さらにこれ以上密着しろというのは拷問か何かかとノーアは思うが、落ちたらただではすまない。しかたなくゲイルに寄りかかるように体重を預けた。
「そんなに速く走らないわよね?」
 おそるおそる問いかけると、ゲイルは意味深な笑みを浮かべる。悪戯を思いついた子供のような。
 思わずノーアの顔も引き攣る。
「行くぞ」
 そうゲイルが言った途端、馬は駆け出した。
 やはりと言うべきか――ゲイルは馬を速く走らせた。それでも加減しているのだろう。しかしノーアにしてみればかなり速く感じる。
 ノーアはただ固く口を閉ざして目を瞑るしかなかった。
 それからどれくらい走ったのか――ずっと目を瞑っていたノーアには分からない。速度が緩やかになったと思うと、頭上からゲイルの低い声が聞こえる。
「もう開けてもいいぞ」
 くすくすと笑う声も聞こえ、ノーアはむっとする。
「あんなに速く走るなんて聞いてない」
「それほど速くないぞ。全速力の方が良かったか?」
 ゲイルが意地悪そうに笑う。
 反駁する勢いも失せ――ノーアはゲイルをただ睨みつけた。
「そう怒るな――何も、起きなかっただろ?」
 ゲイルはノーアの頭を優しく撫でて、微笑む。
 何のことだろうとノーアは思い――自分が恐れていたことだと気づいた。
 赤ん坊の頃、聞いた話のように自分の感情のままに何かが起きるのではないか。ずっとそう思ってた。怖くて外に出れなかった。
 しかし今。
 速度を上げた馬に乗りながら、悲鳴を噛み殺していた。その後でゲイルに腹を立てた。
「……何も、起きていない?」
 ノーアは空を見上げる。
 不安な心とは裏腹に、空は澄み切った青さを保ち続けている。雨雲の気配など微塵もない。
「とりあえず、今日は何も問題なさそうだ」
 そう言いながらゲイルはするりと馬からおり、ノーアをおろしてくれる。
 ノーアはただゲイルの顔をじっと見つめた。
 わざと――だろうか。
 外は安全だと教えるために、ノーアの不安を振り払うために、わざと怖がらせたり、怒らせたりしたのだろうか。
「向こうが砂漠で、その反対が海だ。今度時間が出来たら海まで行こう」
 ゲイルが遠くを指差しながらそう教えてくれる。
 東が海で、西が砂漠。その向こうに水の都、神に愛される土地――アジムが向かっているだろう、オアシスがある。
「オルヴィスは、あっち?」
「ああ、普通の速度で王都までは一週間はかかるか。それでも近いほうだぞ。まぁ、もともとのオルヴィス小さい国だしな」
 しかし今ではオルヴィスも強国の仲間入りだろう。イシュヴィリアナの土地は広く、豊かだから。
「…………いつまで」
 イシュヴィリアナにいるの、と問いかけて、ノーアはその言葉を飲み込んだ。まるでまだいて欲しいと言っているようなセリフだ。
「まだしばらくはいる事になりそうだ。いつまでも王都に帰らないわけにもいかないから、あと一ヶ月か二ヶ月ってとこか」
 聞かずに飲み込んだ問いに、ゲイルは律儀に答えた。
 一ヶ月――それまでに、自分は外に出ることに臆病にならずにいられるのか。そんなことを考えて、ノーアは首を振る。
 オルヴィスに行きたいんじゃない、側にいたいんじゃない、ただゲイルがいなければ外に連れ出してくれる人がいなくなるから――。


「ノーア」

 
 低い声。
 ここにいるのはノーアとゲイルだけだ。つまりノーアを呼ぶのもただ一人で。
「…………今、なんて?」
 一瞬呆然として、意識を取り戻すまでに時間がかかってしまった。今まで一度も名前で呼ばれたことなんてなかったから。
「ノーア、と。何か問題でもあるか?」
「い、いえ、ないけど……」
 空耳ではなかったか、とノーアは火照る頬を手で隠す。きっと赤くなっている。
「乗馬を、やってみたらどうだ?」
「……乗馬を?」
 本題はそれだったのだろう、ゲイルがノーアの赤い頬に気づくことなく問いかけてくる。
「見たところ、馬は嫌いじゃないみたいだし……上達すれば外に出るのも楽しくなるだろう」
「……随分、私を外に連れ出したいみたいね? オルヴィス王」
 厭味だっただろうか――ゲイルがノーアを見て苦々しく顔をゆがめた。
「別に、后にするために外に連れ出そうとしてるわけじゃない。そんなことはどうでもいい。ただ俺は、おまえがただ誰かに連れ出されるだけではいけないから、そう提案しただけだ」
 ふて腐れたようにゲイルがノーアから顔を逸らした。
「おまえに無理強いするつもりはないし、しているつもりもない。対等でありたいと思っている。だから、俺を王と呼ぶ必要はない――何度言えば分かる?」
 ノーアの顔が熱くなった。
 抱きしめられた時の体温、力強い腕、耳をくすぐる吐息――そう古くない記憶が鮮明に思い出され、体温が急上昇している。
 でも。
「一国の王と、対等であるはずがないでしょう……私にはもう大した価値がないのよ?」
 イシュヴィリアナにおいては、ノーアは高い地位にいた女性だった。しかしそれがなくなってしまえば――額にある聖痕でさえ、無意味なのだ。
「価値なんてどうでもいい。俺が、おまえと対等でいたいんだ……ノーア」
 どうして。
 その問いは口に出せなかった。
 ゲイルがそっと、ノーアの頬に触れる。
 温かいその手のひらに、安堵してしまう自分に気づく。




 外に出よう――そう言って差し伸べられたその手を。
 もう、振り払うことは出来ない。





「………………ゲイル」


 その手のひらに応えるように、自分の手のひらを重ねる。
 優しく微笑むゲイルに、ノーアはぎこちなく微笑み返した。






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