太陽の消えた国、君の額の赤い花
15
私が聖女でなければ――――
彼と共にいることに、不安を感じたりしなかっただろうか。
彼と対等であることに自信を持てただろうか。
なんの憂いもなく、彼に微笑み返せただろうか。
すべてはたった一言で崩れ去る。
聖女でなければ、出会うことすらなかった。
名前を呼ばれて嬉しいと思う。
名前を呼ぶことができて嬉しいと思う。
目の前にいるだけで、幸せだと思う。
側にいて、楽に呼吸ができる。
微笑まれれば、微笑み返したくなる。
――抱きしめられれば、心臓が驚くほどに跳ねる。
今までに一度も感じたことのない感覚だ。
分からない。分からないから、困る。
ノーアはため息を吐き出して、本を閉じた。
ほんの数週間前に、ゲイルに聖女について話すために書庫から出してきた本だが――戻す機会を失って、ずっと手元に残したままだ。
イシュヴィリアナの人間なら、誰でも知っている恋物語。
今まで聖女と王家が婚姻を結ばなかったのも、この建国神話に基づいている。この話によれば聖女は国母たるリアナの化身なのだ。その化身たる女性がリアナの子孫ともいえる王家との婚姻を結ぶことは禁忌とされてきた。
そしてその禁忌を無視して――ノーアとアジムの婚約は成立した。
表向きの理由としては薄れていく王家の血と聖女の力を再び取り戻す為。つまりは、それほどイシュヴィリアナが衰えていたということだ。
アジムに対して、特別な感情は芽生えなかった。
恋しいとか、愛しいとか、そういう甘い感情は。
アジムに恋とはどんなものかと聞いたことがあった。困ったように笑いながら、それでも話してくれた。
『病気みたいなもんだな』
アジムは苦笑しながらまずそう言った。照れているだけだとノーアには容易に分かる。ノーアに対して誤魔化す必要はないのに。
『会いたくて、会えれば触れたくて、触れれば心が知りたくて――そういうもんだよ。頭で考えることじゃない、恋をするのは心だ。感覚って言ってもいい。気がつけば始まってるんだ』
――会いたい?
アジムの想う人は遠く、砂漠の中のオアシスにいる。イシュヴィリアナの王子であるアジムは昔ほど簡単に訪れることが出来なくなっていた。アジムは唯一の後継者だから。
『会いたいよ。ガキの頃の恋だからって馬鹿には出来ない。あの頃感じていたことは錯覚でもなんでもなくて、ガキなりの本気だからな。それは何年経っても褪せない』
――いいなぁ。
私も恋がしたい。
すべてを捨ててもいいと思えるような恋が。この身を焦がすような情熱的な恋が。
アジムは優しく微笑んで、いつかその時が来ると言ってくれた。
その時はそんなことあってはならないはずだった。アジムと私はいずれ結婚するはずで、お互いに恋を応援するわけにはいかなかった。
たぶん、オルヴィスが攻めてこないまま、アジムと結婚してもそれはそれで後悔しなかったと思う。それはアジムも同じだろう。遠くにいる初恋の人を想いながら、ノーアも大事にしてくれたはずだ。
しかし運命はアジムを見放さなかった。
アジムはイシュヴィリアナという鎖から解き放たれ、今は愛しい少女のもとへ向かっている。ノーアにも、自由が与えられたのだ。
会いたい、触れたい、知りたい――――。
その欲求はすべて一人の人へ向かう。
たとえばこれがアジムの言っていたとおり、恋心なのだとしたら。
「私は、どうすればいいんだろう」
このまま流れにまかせて、オルヴィス王妃となるか?
ゲイルの后として生きていくのか。
ノーアは俯いて違う、と呟いた。
何か違う。このまま何もしないでいれば、たぶんゲイルの后として、妻として――恋は叶うことになるのだろうか。
そんなことでいいのだろうか?
もとより、これは本当に恋なのだろうか?
考えても答えは出ない。
恋は心でするもの。感覚によるもの。ならきっと、こうして悩んでも意味のないことなのだろう。
いずれきっと、はっきりと分かる時がくる。
それまではノーアが望むように、自由に生きてみれば良い。
まずはゲイルに誘われたように、乗馬を始めることに決めた。ゲイルから早くも白馬が贈られてきたのだ。優しい気性の、ノーアとの相性も良さそうな馬だ。すぐに気に入った。
そうしてこの塔から少しずつ、巣立とう。
ゲイルはさりげなく、ノーアを支えてくれるだろう。
転んだら手を差し出してくれるだろう。道に迷えばそっと手をひいてくれるだろう。――無条件に、そう信じられた。
「ノーア」
低く優しい声がノーアの耳に届く。
木の陰で読書に没頭していたノーアは声に気づいて顔をあげた。誰かなんて聞かなくても、もう分かる。
「――ゲイル」
呼ぶと彼は少しだけ顔を綻ばせる。
何がそんなに嬉しいんだろうと思うが、いつも聞かない。聞くのがどうしてか躊躇われた。
もうそろそろ外で本を読むのは寒くなってきた。葉も赤く色づき、はらはらと地面に落ちていく。実りの秋も終わり、じきに眠りの冬が訪れる。
「聞きたいことがあったんだ。聖月祭についてなんだが」
ああ、もうそんな季節ね――とノーアは呟いて、目を丸くする。
「どうして知ってるの?」
聖月祭はイシュヴィリアナの祭だ。一年の終わりに、聖女の住まう月の塔が民にも解放される。広い聖堂で祈りが捧げられ、民にとっては聖女を見ることのできる少ない機会だ。
もとは月の塔に眠る神の娘に詣でるのが始まりだが、それから形が少し変わり、聖女の祭となった。
「ロハムだよ。やったほうがいいだろう?」
最近覚えたゲイルの部下の名前に、納得する。ゲイルのイシュヴィリアナに関する知識はほとんどロハムの受け売りと考えて間違いない。
「そうね、毎年たくさんの人が来てくれるから……どうせ私がするのは聖歌を歌うくらいだし」
聖月祭に合わせて城下も賑やかになる。商人にしてみれば年に最後の稼ぎ時だ。
「なら、その前には海に行きたいな」
さりげなくゲイルがそう言いながら微笑む。
忘れていないのだと、ノーアも嬉しくなる。
「そうね」
「何かやらなければいけないようなことはあるか?」
聖月祭についてだ。しかしノーアは毎年のことだが、大して覚えていなかった。準備はほとんど修道女の皆がやっていた気がする。
といっても、聖堂を掃除して清めていたくらいだろうか? 祭の三日間はノーアはこれでもかというくらいに飾り立てられるという記憶しかない。
「……私に聞くより、イシュヴィリアナの城の誰かか――近くの修道院にいる修道女に聞いた方が早いかもしれないわ」
ニルがいてくれれば良かったのに、とそこで思ってノーアは俯いた。去年の今頃、ニルは慌しく動き回っていた。
「心当たりはあるか?」
「……そうね、ラトヴィアならたぶん全部采配してくれると思うわ。私がここに来る前からいた修道女なんだけど、修道院のことはいつも彼女が仕切っていたから」
ノーアの母親くらいの年齢で、真面目で、しっかりした人だ。叱られた記憶もあるのでノーアは好意と苦手意識の二つが常に両立している。
「わかった、その他もこちらで手配しよう。ラトヴィアという女性だな?」
「ええ。それで分かるでしょう?」
どうせこの月の塔にいた修道女はすべて調べがついているはず。今どこにいるのかもノーアより正確に分かるだろう。
ゲイルは苦笑して、ノーアの頭を撫でた。
「聖歌の練習でもしとけ。あと乗馬もな」
そう言い残してゲイルは帰ってしまった。
もう少しいてもいいのに、と思うと同時にどうしてそう思うのか、と首を傾げる。
ノーアは大人しく塔に戻り、素直に聖歌の練習をしようと楽譜を探し始めるのだった。
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