太陽の消えた国、君の額の赤い花
16
まだ少し幼さの残る、聞きなれた歌声。
この頃になると朝も昼も夜も、月の塔からは歌声が聞こえてくるのだ。
三ヶ月ぶりくらいになるだろうか。懐かしく感じながら長い階段を上る。オルヴィスの人間がやって来た時には何事かと思ったが。
月の塔の最上階。
聖女の住まう部屋。まるで捕らわれたお姫様が閉じ込められているような場所で、彼女は育った。
長く真っ直ぐな銀の髪。透き通るほどに白い肌。深い水底のような青い瞳。記憶と変わらないその姿に安堵する。
「――――ノーア様」
声をかけると、ノーアは弾かれたように振り返った。
その青い瞳が声の主をとらえた途端、子供のように駆け寄って抱きついてきた。
「ラトヴィア!」
他の目からすれば、それは親子の再会のようだった。
ラトヴィアは黒い髪を一つに束ねた、もう成人した子供がいても可笑しくないくらいの年齢で、いかにも母親らしい。事実、先代の聖女が亡くなってからはノーアの母親代わりだった。
「お元気そうですね、安心しました」
「ゲイル――……オルヴィス王ね? あなたを呼んだのは」
名前で言っても分からないだろうとノーアが言いなおす。ラトヴィアの名をゲイルに出したのは一昨日のことだというのに、その対応の早さには驚かされた。
「ええ、修道院に使いがきまして。改めて月の塔に住まわせていただくことになりました」
「聖月祭のことだけじゃなく?」
もちろん気心の知れたラトヴィアがいてくれるというのならノーアは嬉しい。月の塔に新しくやって来た女官達のほとんどはノーアとの接触をできる限り避けているようだったので、未だ楽に会話できるのはセリだけなのだ。
「出来るのならいてやって欲しいと一国の王にお願いされたら断れませんよ。もとより逃げるのは不本意でしたしね……ニルのことも聞きました。辛かったでしょう」
ニル。
姉のように親しかった修道女。
ノーアを理想の聖女としてしか捕らえられず、この腹に短剣を突き刺した――。
「……私も、悪かったの。ニルを責めないであげて」
そう言ってノーアが無理に微笑んだ。上手く笑えているか、自信がない。
「……少し、安心しました。そこで『私が』ではなく、『私も』と言えるようになったのですね」
ラトヴィアがそう微笑む。
意識した言葉ではなかったので、ノーアは安心したというラトヴィアのセリフに首を傾げる。
「以前のノーア様なら、自分がいけなかったのだと言ったでしょう。変わられましたね」
「よく、分からないわ」
イシュヴィリアナがまだ国であった頃の暮らしよりも、楽に呼吸しているとは思う。周りの視線を気にしなくていい。人の理想である必要はない。それが思いのほか心にとっては負担にならないものだったのだ。
「オルヴィス王は、思っていたよりも良い方のようですね。とんでもない男だったらノーア様を連れ出して逃げようとも考えたのですが」
「大丈夫よ」
くすくすと笑いながらノーアはラトヴィアならやりかねないな、と思う。
「聖月祭の衣装も少し直さないといけませんねぇ。去年より身長が高くなったでしょう、ノーア様」
「そうかしら?」
「年寄りの言うことに間違いはありませんよ」
年寄りなんて――まだそんな風に言う年じゃないだろう、とノーアは笑う。
忙しくなりますね、と意気込むラトヴィアにノーアは苦笑する。
実のところ、聖月祭はあまり好きじゃなかった。
いつもは静かな月の塔に、これでもかというほどの人が集まる。
誰もがノーアを見ている。死角なんてない。息が詰まるほどの人の群れ。逃げ出したくなるほどの視線。
皆ノーアの姿を見て安心したいのだ。
神様はまだ自分を見放していないと。この国に聖女が生まれ続ける限り、神様はいるのだと。
「……元気がないな」
どうした? と問いかけながら、ゲイルはノーアの頭を撫でた。
いつもと変わらないように笑っていたはずだけど、と思いながらノーアは苦笑した。二、三日に一度会うゲイルにはあまり心配をかけたくはない。
「何もないわ。でも、ちょっと疲れてるかも」
「なら遠乗りはまた今度に……」
「いや」
考えるまでもなく言葉は出た。
ノーアが馬に乗るようになってからは練習の意味も込めて二人で出かけることが多くなった。外に出ることへの不安も薄まり、最近ではノーア一人でも馬に乗って散歩に行く。
今は月の塔にいるより、ゲイルと二人で外にいたかった。月の塔は聖月祭の準備で慌しい。
「じゃあ、そう遠くないところまでな」
ゲイルは優しく微笑んでもう一度ノーアの頭を撫でる。
そのぬくもりが嬉しくて、ノーアも微笑み返した。
子供扱いだと思う気持ちも少なからずあるが――ゲイルとの年の差を考えれば当然だろうと思う。それに嫌なわけではない。
「明後日、どうにか時間が出来た。おまえも上達したし、約束どおり海に行くか」
さらりと、まるで天気の話をするかのようにゲイルは話す。一瞬聞き間違いかとノーアは自分の耳を疑ったが、そうではないらしい。
「……大丈夫なの?」
今は聖月祭の準備やら、オルヴィスへの帰還やらで忙しいはずだ。
「大丈夫だ――というより、ここでしか時間が作れない。聖月祭が終わればオルヴィスに戻ることになってるからな。今機会を逃したら終わりだ」
オルヴィスへの帰還の日程も決まったようだ。
急遽聖月祭を整えることになったので忙しさは倍になったはず。大仰な祭ではないのだが、やるとやらないとでは大きく違ってくる。
「連れて行くと約束したからな、約束は守る」
ありがとうと、言葉はすんなりと出てきた。
ゲイルは照れたのか、黙り込んだ。その横顔を見てノーアはくすくすと笑う。
ゲイルがノーアに対して真摯であろうとしていることは、充分に理解しているつもりだ。その理由がノーアから祖国やいろいろなものを奪ったからだということも分かっている。
だからゲイルは優しい。
何もかもを失ってしまったノーアを、放っておけるような人ではないのだ。
そう考えて、何故か胸が痛くなる。
どうしてだろうと思いながらも、それすらどこか心の遠いところへ飛ばして忘れたことにする。
こんな幸せで、穏やかな時間がいつまでも続けばいい。
そう願うことが何よりも残酷なことであると、ノーアは知っていた。
知っていたけれど、願わずにはいられなかった。
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