太陽の消えた国、君の額の赤い花

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17

 乾いた風が頬を撫で、ノーアは眉を顰める。
 ここ数週間、雨が降っていない。降る気配もない空を見上げてノーアは分厚い、灰色の雲を探した。
 大陸の六割が砂漠というこの荒れ果てた世界で、水はどの国でも貴重なものだった。雨は降って喜ばれることはあっても、降らずに喜ばれることはない。
 もちろんゲイルと一緒に海に行く今日に降られるのは困るけれど。
 もう作物は収穫した後だし、困るといっても生活する為の水くらいなのだが、その確保すら毎年厳しいというのに、晴れ間の続く最近の天気はきっと疎まれているだろう。
 たぶん、ゲイルも気にしているだろう。
 こんな時に自分の力が自由に使いこなせればいいのにと思ってしまう。自由自在に天気を操れたら、雨を降らせるのに。
 ノーアの強すぎたという聖女の力も、今となっては本当だったのかも怪しいものだ。もう数え切れないくらいに月の塔の外に出ているが、何も起こらない。成長すれば自然と制御できるようになるというのは本当だったのか、それともノーアの力が実は大したものではなかったのか。
 まるで普通の女の子になれたみたいだと、最近思う。


 嬉しいと思う反面、心苦しく思うなんて可笑しいのだろうか。






「――晴れたな」
 ゲイルは会って最初にそう微笑んだ。
 長い間雨が降らないということは喜ばしいことではないはずなのに、ノーアと出かけるこの日に晴れたことを嬉しいと感じてくれているのだと、ノーアも微笑み返した。
「ゆっくり行こう、急がないで」
 ゲイルにどれだけ自由な時間があるのかは分からないが、ノーアは素直に頷いた。
 一緒にいられるのは嬉しい。
 澄み切った空の青が今だけはいとおしい。どうか今日はこのまま、一滴の雫も落とさないままでいてほしい。雨が嫌いなわけじゃないけれど、初めて見る海は青空と見分けがつかないような日が良い。
「……疲れてる?」
 ゲイルの横顔を見つめながら、ノーアが問いかける。
 帰還と聖月祭の準備でゲイルは多忙のはず。そんな中でこうしてノーアのために時間を作ることは簡単じゃなかったはずだ。
「少しな。朝方まで書類と睨みあっていたから」
「……無理しなくてもいいのに」
 ノーアと遠出することよりも、休むことを優先してほしい。倒れてしまったら元も子もない。
「そう言うな。俺だって楽しみにしてたんだしな」
 私だって、と言い返すのはさすがに恥ずかしくてノーアは黙る。その横顔を見て、ゲイルが笑った。たぶん赤くなっているのだろう。







 青。蒼。藍。碧。


 あらゆる青がそこに交じり合っていた。


 どこまでも、どこまでも、見渡す限り青い。
 息を呑んだ。言葉を失うということはこういうことを言うのだろう。
「――……すごい」
 これがすべて水なんて、信じられない。
 潮風がノーアの髪を攫う。独特の香りではあるが、嫌いではなかった。どこか懐かしく感じるなんて言ったらゲイルは笑うだろうか。
 どこまでこの海は広がっているんだろう。
 同じように広がる空はどれだけ高いのだろう。
 ――自分が知っていた世界がどれほど小さかったのか、思い知らされるようだった。
「これが、全部真水なら良かったのに」
 純粋な感動の後には、そんな感想が生まれた。
 ――そしたら水に困ることもないのに。
「世界は上手く作られてるってことだろうな。これほどの水があったら人間は進化を止めたかもしれない」
 水がない。植物が育たない。少しでも生活が豊かになるように――人は努力し続けてきたから。
「難しいのね」
「ないものねだりだ。結局は。どれだけ欲しいと思っても空にある太陽にも、月にも手が届かないのと一緒だ」
 どこかで聞いた話だな、と思った。
「月が欲しいと泣く子供ね、昔よく我儘を言うとラトヴィアに言われたわ。――可笑しいのよ。普通は月は手に入らないものなんだって言い聞かせる話なのに、ラトヴィアは『ノーア様が月なんだから欲しがったって駄目ですよ、もう持っているんだから』って言うの」
 変よね、とノーアが笑う。
「聖女は月の象徴、か」
 太陽の傍らで、ひっそりと輝く。太陽が輝いている昼間は見えなくなるくらいに光を失う。時折青い空に白く浮かんでいるだけ。
「だからラトヴィアに太陽が欲しいって言ったら『それは無理です。だって太陽が今より近くにあったら眩しくて目が開けられません』って……」
 その後で、まだ自分は何か言った気がする。
 思い出そうと記憶を掘り返すが、まったく見つからなかった。
「――ノーア」
 呼ばれて見上げると、ゲイルは真剣な顔でノーアを見つめていた。
 何かを予感するように、心臓が脈打つ。


 どうして、そんな顔で見つめてくるの――。


 ゲイルがそっと、ノーアの頬に触れる。
 いつもは安堵させてくれる優しいそのぬくもりが、今だけはノーアを緊張させた。 
「聖月祭が終われば、俺はオルヴィスに戻る」
 知っている。そう言おうとした。
 言えなかったのは、ゲイルの強い瞳がノーアが何か言うのを止めているように見えたからだ。


「――――おまえは、どうする?」


 切ない、瞳。
 ノーアの口から出される答えに、怯えているようにも見えた。
 オルヴィスに共に行くか、イシュヴィリアナに残るか――ゲイルが聞いていることはそういうことだ。オルヴィスに行くということはすなわち、ゲイルの后になることと同意と考えて間違いないだろう。
 ゲイルと一緒にいたい。
 それが素直な気持ちだった。
 だけど、慣れ親しんだイシュヴィリアナを離れるなんて考えられなかった。月の塔にいなくても、聖女の力が暴走するようなことはないと、最近実感することが出来たけれど、それでもやはりどこか不安だった。
 オルヴィスに帰ってしまったら、今までのように会えない。それも分かっていた。
 動揺してノーアは俯いた。
 ゲイルがそっと手を下ろした。ぬくもりが去った後の頬は風がやけに冷たく感じた。
 下ろされたゲイルの手のひらを見つめる。
 手のひらを深く切った、傷跡。
 ノーアが自害しようとした時、止めに入って出来た傷だ。
 あの時は本当に死のうと思っていた。舌を噛んででも、どんなことをしてでもこの男の言いなりになるくらいなら死んだほうがましだと思っていた。


 ああ、思い出した。




『昼間の太陽が駄目なら、夕日ならいいでしょう。真っ赤で綺麗な太陽なら、側にいても眩しくないもの』
『まぁ、ならノーア様。あの短い間に太陽を捕まえられるんですか?』
 できるもの、と強がって夕暮れ時にいつも夕日に手を伸ばした。月の塔の一番西側に行って、何度も捕まえようとした。
 結局捕まえることなんて出来るわけがなくて、大泣きしたんだ。


 あの頃から、私は太陽が欲しくてしかたなかったんだ――。


 傷の残る手のひらにそっと手を伸ばす。
 両手でその手のひらを優しく包み込んだ。




「…………考えさせて」




 結局、そんなことしか言えなかった。




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