太陽の消えた国、君の額の赤い花
18
朝、目が覚めると一番に窓を開け放つ。
からりと晴れた空は恵みの雫を零す気配など微塵もなく、どこまでも澄み切った青さを保っている。
民は今頃必死だろう。水がもうそろそろ枯渇してしまう。
胸に不安がよぎる。
民が縋るのは国王ではない、神の御使いたる聖女だ。
不安が消えることがないまま、聖月祭の当日を迎えてしまった。
『おまえは、どうする?』
共にくるか。この地に残るか。
その問いにノーアは答えなかった。答えられなかった。
様々な感情が胸の奥で渦巻いた。この月の塔の外で暮らしても大丈夫なのだろうか。ゲイルの后となることは正しいのか。見知らぬ土地で、頼る人はゲイルだけ。そんな状況で自分は――。
「顔色が優れませんね。ノーア様」
ノーアに衣装を着せていたラトヴィアが心配そうに問いかけてくる。
大丈夫、と短く答えてノーアはまた黙り込んだ。聖月祭が近づいてくるにつれ――否、ゲイルの帰還が迫るにつれ、ノーアは部屋に閉じこもるようになった。
彼が帰ってしまう前に、答えを出さなければいけない。
「綺麗ですよ、ノーア様。ご覧になります?」
セリだけが祭の雰囲気に酔って元気がいい。
ノーアが着ているのは白いドレスだ。幾重にも重ねられた絹に、金糸と銀糸で見事な刺繍が描かれている。光の加減で浮かぶその刺繍の美しさには誰もが息を呑んだ。
まるで花嫁衣裳だ、とセリが褒め称えるのを聞いてノーアはいたたまれなくなった。
ノーアの長い銀の髪はそのままおろされ、背中を覆っている。イシュヴィリアナは女性が髪を結う習慣はない。髪には生花が飾りつけられた。赤い花だ。
聖月祭は、午前中にノーアが聖堂で聖歌を歌い、昼頃に町を馬車で巡る。そして午後にもノーアが聖歌を歌い続け、民のほとんどはノーアを一目見た後はお祭騒ぎだ。もともと祭りは、騒ぐ口実のようなものだ。
「さぁ、ノーア様。参りましょう」
こくりと頷いて、ノーアはゆっくりと聖堂に向かう。
足が鉛にでもなってしまったかのように、重かった。引きずるようにしてノーアは自分を無理やり歩かせることに必死だった。
初めにどの歌を歌ったのか、ノーアはよく覚えていない。
ただ貴賓席にいるゲイルの姿を見つけて少しだけほっとしたのを覚えている。けれど同時に答えを迫られているような錯覚に陥り、記憶はあやふやになった。
静まり返った聖堂。
たくさんの人がまるで人形のように話さず、ただ響くのはノーアの歌声だけ。澄み切った青い空のような涼やかな声。
無心になったことはかえって良かった。人々の視線を気にすることなく、自分の務めを果たすことが出来たから。
窓から差し込む光がノーアを照らす。銀の髪がそれを反射してきらきらと輝いて、白い衣装を彩る金と銀の糸も光が当たるたびに模様を浮き出していた。
数多の人々の視線を一身に受け止めるノーアはまさに神々しかった。この世に舞い降りた女神――普段のノーアを知る者なら否定しそうな言葉さえ、今の彼女には合っている。
何曲か歌い終え、一度ノーアが下がる。
その後は集められた修道女が聖歌を歌っていたりしたが、人々は町に戻っていった。
これからノーアは馬車で町を巡る。
質素ではあるが適度に装飾を施された馬車にノーアは乗り込んだ。屋根のない馬車だ。そうでなければノーアの姿が見えない。
去年まではアジムと一緒に乗っていた。ゲイルを乗せるのは違和感を感じたし、話すことが少し気まずいので説明もせずノーアは今年初めて一人で町を巡る。
慣れた作り笑顔を浮かべて手を振る。
祭りの雰囲気はそれほど悪くなく、皆ノーアの姿を見つけると花やお菓子を投げて寄越した。例年と変わらない、穏やかなものだ。
良かった、これで何もなく終わる――。
ノーアがそうほっと安堵した時だ。
馬車の前に一人の女性が立ち塞がった。
御者が慌てて馬を止める。衝撃で馬車はひどく揺れた。町人も皆一様にざわめく。
「聖女様!!」
女性は馬車の前に跪き両手を組んでノーアに懇願した。
「雨を、どうか雨を降らせてください!! もう水がないんです!」
泣きながらそう願う女性を、護衛が退けようと腕を掴む。しかし女性は強い目でノーアを見つめたまま何度も何度も同じ事を願った。
「お願いです! 雨を! 雨を降らせてください! 聖女様!」
予感はしていた。
誰もがいつかは聖女に縋るだろうと。
女性の願いはしだいに周りの人々にまで感染し、いつしか町人がノーアの乗る馬車を囲い必死に雨を、水を、と叫んでいる。
「聖女様!」
「どうか雨を!」
「助けてください!」
「水を!!」
「聖女様!」
「聖女様!!」
「どうか!」
その人々の目にノーアは恐怖した。
誰もがノーアを信じてやまない。神の愛娘ならばどんな奇跡でも起こせると思っているのだろうか。もとの生まれはさほど変わらないだろうに。
人は弱い。
何かに縋りつかなければ生きていけない。同じ行動をとっていれば安心できる。
縋りつかれる人間のことなど、何も考えず、ある意味無邪気に助けを求める。
やめてやめてやめてやめてやめて。
私にそんな力はない。雨なんて降らせることは出来ない。
期待しないで。願わないで。私は神様じゃないんだから。
護衛がノーアに近づこうとする町人を必死で抑えるが、こんな状況を予測していなかったために人数が足りない。
縋るように伸ばされる手からノーアは逃げるように身を引く。
怖い。もう何も聞きたくない。
ノーアは馬車の中で小さくなり、耳を塞ぐ。
恐怖から涙が流れた。
「…………たすけて」
誰に救いを求めているのか。
ノーアの頭にはただ温かい太陽の光だけが浮かぶ。
人々の懇願は時間が経てば怒りに変わりそうな気がした。それほどまでに人々の勢いはすごかった。
ぽつりと、水滴が落ちる。
それはノーアの瞳から落ちた涙ではなく、空から降り注ぐ恵みの雫だった。
気づいた人々が一人また一人と空を見上げる。晴れ渡った空には雨雲なんてない。雫はしだいに強くなり、人々を、ノーアを濡らした。
「雨だ!」
「雨が降ってきたぞ!」
歓声が耳に届いてもノーアは馬車の中で一人震えていた。
雨に喜ぶ人達を退かし、ノーアを乗せた馬車は急いで月の塔へと向かった。
「聖女様!」
「ありがとうございます! 聖女様!」
「聖女様!」
感謝の言葉が重くノーアにのしかかる。
聖女様、と呼ぶ声は紛れもなく先ほどとは違う声色であっても。
ノーアの力か、偶然か、それを判断することは出来なかった。しかしあの場にいた人達にとってこの雨は間違いなくノーアの起こした奇跡となった。
月の塔に戻るとノーアは恐怖からか部屋に籠もった。
予定されていた午後のノーアの出番は皆修道女達によって誤魔化され、事なきを得た。人々の間に降りだした雨の奇跡は伝わり、午後のノーアの欠席に大きな反感は抱かれなかった。
雨は雨雲を呼び、あれほど晴れていた空は今どこにも見当たらない。
聖堂から響く修道女達の歌声を聞きながら、ゲイルはノーアの部屋までの長い階段を上る。
「――……ノーア」
扉の前で声をかけるが、反応はなかった。ラトヴィアが何度も呼びかけたらしいが同じように何も返ってこなかったらしい。
ゆっくりと扉を開けると、寝台の上でノーアは毛布にくるまって震えていた。
「ノーア」
優しく声をかけるとびく、と肩が震えた。振り返ったノーアは泣いていた。よほど恐ろしかったんだろう。
「……ゲイル」
温かな太陽の光を求めるように、ノーアはゲイルに抱きついた。
ゲイルは寝台に腰を下ろし、抱きついてきたノーアを優しく抱きしめた。子供を宥めるように背中を撫でる。
ノーアの嗚咽が部屋に響く。
もう大丈夫だと囁きながらゲイルは震えるノーアを慰めた。
俺がいるから。俺が守るから。悪意からも、善意からも。ノーアを傷つけるすべてのものから。
雨をと求めた人々に悪意はなかった。
誰かに縋り、神に願うしか彼らには方法がなかった。
彼らの目にノーアは聖女としてしか映らない。ただの一人のか弱い少女だなんて誰も思わない。
あんなにたくさんいた人々の、恐怖するほどの願いをこの少女が背負うなんて誰も考えていないのだ。残酷なことに。
ノーアはゲイルの上着をきつく握り締める。
一人にしないでと訴えてくるようでゲイルはいとおしくなった。
「……たすけて…………」
震える声でそう訴える。
やっと自分が助けを求めていた存在が彼だったのだと、ノーアはこの時になって気づかされた。
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