太陽の消えた国、君の額の赤い花
2
意地の悪い、不敵な微笑みを残してゲイルは去った。
その微笑みがノーアの胸の奥に燻る炎のような熱く、かすかな怒りを残らせた。ノーアは何も言わずにただ月の塔に入る。ここは誰も汚せない、ノーアの領域だから。一歩中に入れば少しだけ心は落ち着く。
塔の中は不思議なほどに静かだった。普段は修道女達がゆったりとした時間を楽しんでいるその場に、今はノーア以外誰もいない。当然と言えばそこまでなのだが、その静寂はノーアの心を揺らした。
守ってくれていた王家は、もうない。
ノーアはただの無力な少女になってしまった。
重たい足を引きずるようにして、ノーアは一階の、昼間に使っている部屋に行く。最上階にはノーアの自室があったが、そこまで上る気にはなれなかった。
一階の部屋にも仮眠用の寝台がある。そこで今夜は眠ろうと――そう思って扉を開けると、窓が何故か開いていた。
首を傾げて窓を閉めようと近づくと、窓の向こうから声がした。
「ノーア」
それは長年聞き慣れた声だ。
しかしその声の主がここにいるはずはない。
「――……アジム?」
いるはずがない、空耳だと思いながらも、わずかな期待を胸に呟いた。
一階の部屋に来て良かった、と自分の気まぐれに感謝した。もしかしたら神の采配だったのかもしれない。
窓の向こう、そこには確かに兄のように慕った、イシュヴィリアナの王子がいた。しかし王子という身分には似つかわしくない、みすぼらしい旅装束を着ている。
「随分と来れなくて悪かった。戦争中、不安だったろ?」
駆け寄ってきたノーアに微笑みながら、アジムが言う。オルヴィスとの戦争が始める前は三日に一度は月の塔に来てくれたのだ。
「私、夢でも見てるの? だってアジムは明日処刑されるって――」
ほっと安堵したせいか、流れなかった涙がこみ上げてくる。溢れ出た疑問を口にした途中で、ノーアは口を噤んだ。ノーアの脳裏にアジムの側にいた、一人の青年が浮かぶ。
「まさか……ジルダスが?」
驚くほどアジムに似た青年は、アジムの影武者をしていた。イシュヴィリアナに詳しくないオルヴィスの者なら、きっと騙せるだろう。
「……ああ」
アジムが複雑な面持ちで頷いた。
慰めになるような言葉も思いつかずに、ノーアは俯く。
息苦しく、重い沈黙の後でアジムが口を開いた。
「これから、国外に逃げる」
「じゃあ――あのオアシスに行くのね?」
ノーアの言葉に、アジムはにっ、と笑った。肯定だ。
アジムの初恋の女の子の話は、もう随分と前から聞いていた。その女の子は砂漠最大のオアシスにいる。そしてアジムがまだその少女のことが今も好きだということを知っていた。
ノーアとアジムは一応婚約していたが、それは国が決めたことだった。お互い兄妹のように思っていただけで、恋愛感情なんて抱いたことなどない。
そもそも聖女と王子の婚姻は、異例だった。
太陽と月。どちらも同じ世界にいることは叶わぬ存在。交わることのない、二つの至宝。
ノーアとアジムの婚約は、イシュヴィリアナがそうしなければならないほど衰退していたことを証明していた。
「ノーア。おまえも来るか?」
少し迷ったように、慎重に言葉を選んで出された問いにノーアはくす、と笑って即答した。
「何言ってるのよ、お邪魔虫じゃない」
そうじゃなくて、とやけに真剣なアジムの声が響いた。
「分かってるだろ? おまえは俺の次に危険なんだぞ」
「分かってるわ。でも、冗談でしょ? 私に、身代わりなんていないもの。額に痣のある女の子が私以外にいるわけないじゃない」
この額に咲く小さな花のような、赤い痣――たったこれだけでノーアは聖女になった。生まれてすぐに。
アジムが押し黙った。無理だということくらい、彼にも分かっていることだ。
見つめてくるアジムの顔が、痛いほどに悲痛で、ノーアの胸は苦しくなった。
「……大丈夫よ。私は処刑されると決まってるわけじゃないんだから」
むしろ――后になれ、というあのオルヴィス王の言葉から、ノーアは利用されることはあっても、殺されることはないだろう。
「ノーア。俺を恨むか?」
射抜くような強い視線。
ノーアはどうして? と聞き返した。
「俺が、イシュヴィリアナを捨ててオアシスに行くから。本当なら、王子としてもう一度オルヴィスと戦わなければならないのに――」
いくらノーアが世間知らずだとしても、オルヴィスとの戦いが絶望的で、勝利など奇跡でも起こらない限り不可能だったということくらいは、知っていた。
たとえ再びアジムが戦を始めても、叶うわけが無いのだ。しかし王家の人間として、どこまでも抗わなければいけない。
でも――――
「恨んだりしないわ。これ以上戦争をして、なんの意味があるの? また負けて、たくさんの人が死ぬことはそんなに偉いことなの? ……王族だって、人間なのよ。自分の生きたいように生きて、いいじゃない」
「――王は、非情でなければならない」
「アジムは王じゃないわ」
きっぱりとノーアは言い放った。
アジムはまだ悩んでいるのだろう。国外に逃げ、アジムというただの男となって自由に生きるのと、王子として国の仲間を集めて再び戦うか。
「あなたは王じゃないの、アジム。誰もあなたを恨んだりしないわ。形あるものはいつか消える。それは国でも同じことでしょう?」
ノーアは精一杯笑顔を作った。
生きて欲しい。どんな形であっても、この世界のどこかで生きてくれればそれでいい。もう胸を抉られるような辛い悲しみに襲われるのは嫌だ。
「ありがとう、ノーア」
アジムが優しく、穏やかに微笑む。
彼はきっと誰でもいいから、ノーアが言うように言って欲しかったのだろう。
「……ほら、早く逃げて」
このまま夜明けまで居つきそうなアジムを、ノーアが急かす。ここで見つかってしまったら一巻の終わりだ。
だから。
「――アジム、約束して? また会おうって。そのときはオアシスの姫も一緒に」
守ろうとも思わない約束を取り付けた。
アジムはノーアの心情に気づくこともなく、柔らかに微笑んだ。
「分かった、約束しよう」
アジムは馬に跨り、私を見下ろしている。その瞳にはやはりまだ悲痛な色が濃く残っていた。
「ノーア。もしもおまえの身に危険が及ぶようなら――国にかまわず逃げろ。もうイシュヴィリアナはなくなったんだ。無い国のために、おまえが犠牲になる必要はない。民は王が変わっても、聖者がいなくても生きていける」
分かってる、と答えながらも分かっていなかったのかもしれない。
イシュヴィリアナがなくなったのだとしても――ノーアはこの月の塔という狭い場所以外を知らない。その外に出るという勇気もなかった。
「――早く。また会えることを神に祈ってるわ。……兄様」
いつもは兄なんて呼ばない。でも今この場ではそう言うのが一番相応しいと思ったのだ。
「俺も神に祈ってるよ。もしも神が本当にいるのなら……どうか、無事で」
アジムはそっと、ノーアの額に口づけをして、二人はしばらく見つめ合った。もしも恋人同士だったのならこれ以上ない甘い雰囲気になるのだろうが――無言でアジムは離れ、最後に一度優しく微笑んで去って行った。
遠くでもう一人と合流していた。側近のガジェスあたりだろうな、と検討をつけて、少し安堵する。アジムは一人じゃない。オアシスに辿り着けば姫もいる。
どんどん小さくなり、やがて見えなくなったアジムの姿を静かに眺めて、ノーアは小さくごめんなさい、と呟いた。
もう二度と会わない。
不幸にもアジムの存在がノーアの決心を揺ぎ無いものに変えてしまった。
アジム・アブラシード・イシュヴィリアナは明日処刑される。彼が本当は生きているなんていう事実を知る者が、イシュヴィリアナに――オルヴィスに、いていいはずがない。
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