太陽の消えた国、君の額の赤い花

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 アジムが旅立った夜が明け、そして何の知らせもないことが、処刑が滞りなく行われたことをノーアに教えていた。
 その日、早朝に目覚めたノーアは塔の中を掃除するのに丸一日を使ってしまった。
 それでも手の行き届いていないところはあるし、全てを掃除したわけじゃないが、ノーアにしてみれば人生初の重労働だった。身の回りのことを多少することはあっても、聖女という特別な立場だけあって、ほとんどのことは人がやってくれたし、あまりノーアがやろうとすると怒られた。
 太陽が西の空に傾き、空を鮮やかな朱に彩っている頃にノーアは沐浴した。
 掃除したおかげであちこち埃っぽいせいもあるのだが、心身を清めることが目的だった。
 濡れた髪を拭き、白い服を着る。簡素なドレスだが、質はいい。長い銀の髪の水気を取り、そのまま背中に流した。結い上げるのは好きじゃないし、自分一人では結えない。


 東の空はもう薄暗くなり、夜の到来を告げていた。
 ノーアはただ立ち尽くして西の赤い空をしばし見つめた。
 どこか胸に寂しく響くその美しい赤に、ノーアの思考も休まる。




 太陽がすべて飲み込まれ、世界は闇と静寂に包み込まれる。
 ノーアは深く息を吐き、月の塔に入った。一階の大部分は聖堂で、修道女達が祈りを捧げる場所だ。そのさらに奥に、聖女の為の祈りの間がある。
 聖女の姿が見事に描かれた絵を前に、ノーアは跪く。
 懐から短剣を取り出し、どこを刺すべきか少し考えた。修道女は人々の治療をすることもあってので、ノーアも少しだが知識がある。
 首には大きな血の流れがあるから、切り裂けばたくさんの血を流して死ぬ。胸を刺せばそこは身体の中で一番重要なところだから死んでしまう。

 
 ――長く苦しまないほうがいいな、と思った。


 出来れば一瞬で楽園に行ければいい。それとも自分は聖女だから、神の下へと行く事になるのだろうか。そんなことを考えてノーアは自嘲気味に笑う。
 短剣を鞘から抜き、握りなおした。
 狙うのは胸。命の源。
 長く長く吐息を吐き出して、ノーアは固く目を閉じた。狙いに迷うことなく、短剣を自分の胸へと突き刺す。
 生暖かい、飛沫(しぶき)が頬にかかる。鉄錆の匂いがした。


「――……?」


 何故か不思議と痛みはなかった。
 やはり死ぬときはあまり痛みを感じないのだろうか。そんなことを考えたまま、天の使いがやって来るのを静かに待とうと思った。
 しかし。
「――っ……てぇっ……」
 ノーアの頭上――耳元で、そんな声が聞こえた。
 驚いてノーアが目を開ければ、目の前で短剣が固く握り締められていた。その切っ先はノーアの身体に一つの傷もつけていない。
 おそるおそる、顔を上げて振り返る。すぐそこに――唇が触れてしまいそうなほどの至近距離に、ゲイルがいた。
「……オルヴィス王」
 ゲイルはノーアに覆いかぶさるように、ノーアの自殺を食い止めた。
 その存在にノーアは憤りを感じ、さらに邪魔をされたということがノーアの怒りを増幅させた。
 短剣はゲイルに強く握り締められていて、まったく動かない。非力なノーアがどれだけ抗おうとしても、ゲイルは手加減する様子はない。
 結局短剣は強引に奪い取られ、遠くに放り投げられてしまった。
 ――最後の手段しかない。
 放り投げられた短剣を見たノーアは覚悟を決めて、いつか宣言したとおりに自分の柔らかな舌を噛もうと――噛み切ろうとした。
「んっ」
 しかしノーアの次なる行動に気づいたゲイルに先手を打たれる。口にゲイルの指が入り込んで、舌を噛むことなど出来なくなった。
 せめてもの反抗にと、ノーアはその指に噛み付く。
 口の中に、鉄の味が広がった。
 それは指を噛んだ程度ではありえない量で――それが、さきほど短剣を握り締めた時にゲイルの手のひらについた深い傷だということにノーアは気づいた。
 顎に触れる部分も、ぬるぬるした。生臭い、血の匂いが鼻腔を刺激した。
 その事実を認識すると、ノーアは途端に怖くなった。
 ゲイルの手のひらから流れる血がノーアの顎を伝い、そしてぽたりぽたりと落ちて、ノーアの白いドレスを紅く染め上げる。
 すべては自分がしたことなのだと、そう思うと恐ろしくてたまらなかった。身体は勝手に震えだし、瞳には涙が浮かぶ。
「――……これくらいのことで怯えるなら、初めから死のうなんて考えるな」
 耳元で声がする。
 それは少し怒気を含み――そしてどこか優しかった。
 ノーアは、所詮温室育ち――誰かを傷つけるなんてことはもちろん、こんなに大量に流れる血を目の当たりにしたこともない。祈りの間には血の匂いが充満していて、ノーアは吐き気がしてきた。
「…………ふ……」
 堪えきれずに、ノーアの青い瞳から涙が零れる。小さな嗚咽が漏れ、不思議なほど大きく祈りの間に響いた。
 力を抜いてその場に座り込むノーアを見て、ゲイルは慎重にその口から手を離した。短剣を握り締めた時の傷は、思った以上に出血している。
 ノーアにはもう自害しようとする気配はない。
 すぐ側で、抱きしめられるほど近くで泣いている少女の姿は、儚く美しかった。
 涙の理由はノーア自身にも分からなかった。憎悪か、恐怖か、安堵か、悲哀か。
 羞恥心なんて関係なかった。とめどなく流れる涙を止める術など、ノーアには分からなかった。
 イシュヴィリアナが消え去った時から、凍らせていたたくさんの思いが一気に溶け出したようだった。










 ぼんやりとした思考の中、ノーアはゆっくりを目を開けた。いつの間に眠ってしまったんだろうと考える。
 辺りはまだ暗い。太陽はまだ闇に飲み込まれたまま、姿を現していない。
 泣きつかれて寝てしまったのか、と考えながら起き上がる。頭に鈍い痛みがはしり、瞼が重かった。たぶん驚くほどに腫れているんだろうな、とノーアは苦笑する。
 服は眠る前のまま。あの紅い血痕もそのまま、白い服を汚していた。
「――……オルヴィス王は」
 どうしただろう。あの怪我はちゃんと手当てしただろうか。
 そしてすぐに、どうして自分が彼の傷の具合の心配をしているのかと不思議に思った。確かに怪我をさせたのは自分だ。しかしそれは彼が勝手にノーアの自害を妨害したのだし――結果的には自害することをさえ放棄したのだけれど――敵であるゲイルに、ノーアが剣を向けてもそれはそれで仕方ないことではないだろうか。
 それでも、脳裏から血色とその匂いが消えない。ノーアの心に何かを訴えてくるように何度も何度も蘇る。
 ……頭が混乱しているんだろう。
 外の空気でも吸おう。それで少し冷静にならなければ。
 そう思ってノーアは扉を開けた。すぐ外は階段しかない。
 そこでやっと、自分が今まで眠っていたのが塔の最上階にある自室だったということに気がついた。
 ノーアがここまで上った記憶はない。
「まさか……オルヴィス王が?」
 それ以外に考えられなかった。
 泣き崩れるノーアの側に、ゲイルはいた。慰めるわけでもなく、叱り付けるわけでもなく、ただ側でノーアを見つめていた。
 敵である男が自分の寝室に入ったのは嫌だった。敵でなくとも、寝室に異性が入ってきたことなどない。
 しかし、手のひらに怪我をしていたのに――そう思うと少し申し訳ない気分になった。
 階下に下りる。外に出ると、そこにはいるはずもない葦毛の馬がいた。月が周囲を照らす中、大人しく木に繋がれている。
 月の塔に馬はいない。乗る者がいないのだから、厩舎もない。
「――…………」
 ノーアは踵を返し、塔に入る。
 昨夜自分が眠った一階の部屋に忍び寄り、静かに扉を開けた。
 そこには、やはりゲイルが眠っていた。
 どうして城に戻らなかったのだろう、とノーアは思う。一国の国王がこんな簡素な寝台で眠るなんて。
 テーブルに、ノーアが使った短剣があることに気づく。きちんと鞘に収められていた。
 その短剣を見た途端に、黒い感情が浮かんできた。


 ――今ならこの男を殺せる。


 無防備に寝ているだけの男なら、ノーアでも簡単に殺せる。自害しようとした時のように、首か、胸を刺せばいいのだ。
 短剣を握り締めたまま、ノーアはゆっくりと寝台に眠るゲイルに忍び寄った。
 まだ短剣は鞘にしまったまま。頭の中では何も考えられず、どうすべきかもよく分からない。
 胸に置かれた、ゲイルの右手につい目がいく。
 乱暴に巻かれた布。それもきちんとした包帯ではない。タオルか何かを巻きつけただけだ。
 わずかな明かりの中でも分かるほどに、その白い布は血で染まっていた。きちんと止血していないのだろう。
「――――……馬鹿な人」
 この部屋にはちゃんと包帯も、薬もあるのに。きちんと手当てしないと治りも遅くなるし、傷によくないのに。
 ノーアは短剣をテーブルに置き、薬箱を持ってくる。ランプに火を点けて手元を照らした。
 起きてしまうだろうか、というわずかな不安を胸にノーアはゲイルの右手を消毒し、薬を塗った。器用に包帯を巻いて、元通りに胸の上にそっと置く。
 ふっ、と息を吹きかけてランプの火を消す。
 途端に部屋の中は暗くなり、窓から零れる月と星の輝きだけがノーアを照らす。


 夜はまだまだ明けない。
 ノーアは静かに扉を閉めて、ゆっくりと階段を上る。


 手当てしたのは、彼があんまりにも杜撰(ずさん)だったから。怪我させてしまったのは自分だから。そのままにしておくのは後味が悪いから。
 眠ってしまった自分を、部屋まで送ってくれたから――。





 さまざまな言い訳を胸に、ノーアは眠りについた。

 



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