太陽の消えた国、君の額の赤い花
4
ゲイルはノーアが部屋を出て行ったのを、耳で確認してから目を開けた。
彼女が扉を開けて入ってきた時に目は覚めていたのだが、起きる気にはなれなかった。殺されそうになっても少女の一撃くらいどうにでもできたし、起きても話なんてできるとは思えなかったからだ。
しかし彼女は、短剣を見つけて一度は握り締めながらも、傷の手当てをした。
「――馬鹿な人、か」
確かにそうかもしれない。
あのまま眠ってしまった彼女を運んで、城に戻れば良かったのだ。もともと泊まる気なんてなかったのだから。
ここで彼女に殺されても可笑しくはないのだ。彼女は自分を憎んでいるのだから。
彼女を后に迎えるというのは――ほぼゲイルの独断だった。
それをあの頭の固い貴族に提案すれば、反対されるのは分かりきっている。いつ寝首をかかれるか分からない状況など、あいつらが許すはずもないし、自分達の可愛い娘を差し置いて正妃の座を他国の娘に奪われるのも我慢できないのだろう。
后は、つまり国王の正室。ノーアのイシュヴィリアナにおいての地位を考えればそれは相応なものだ。
イシュヴィリアナの聖女を殺すわけにはいかない。
そんなことすれば民はおそらく蜂起する。それだけ聖女は重要な存在だと聞いている。ある意味では――王族よりも性質が悪い。
民は王族が死んでも、心を痛めることはない。しかし聖女は信仰の対象だ。目に見える神なのだ。
手のひらが痛んだ。
彼女を殺すなと訴えてくるかのように、痛みは断続的に訪れる。
彼女の青い瞳から零れた涙が、脳裏に焼きついて離れない。
俺のものになるくらいなら死んでやると言ったあの強い眼差しが、今もゲイルの胸を貫いていた。
手のひらに巻かれた包帯にそっと口付ける。
血の匂いと、消毒液の匂いの他に、何か優しい甘い香りがする気がした。
ゲイルは苦笑する。
もう捕らわれているのだ。彼女の青い瞳に。
彼女はほんの短い出会いでゲイルの心に確かな居場所を作った。
ならば手に入れる。
運命の赤い糸だろうが、鎖だろうが、彼女を絡め取ろう。
決して――逃げられないように。
朝の眩しい光に、ノーアは目を覚ました。
あまり良く眠れなかった分、頭はぼんやりとしている。
どうして誰も起こしに来ないんだろうなんて思ってから、もう誰もいないのだと首を振った。
「禊、行かないと」
いつも朝起きると最初に身を清めた。
それが毎日の日課だったので聖女でなくなったとしても、変える気はなかった。
白い簡素な服を着る。今着ている血のついたドレスよりもずっと飾りがなく、白い布をそのまま被ったのとさほど変わりは無い。
階段を下り、一階に来てノーアはあ、と呟く。
「――――……オルヴィス王」
彼がいることを忘れていた。
寝るときには脱いでいた上着をしっかりと着込み、今まさに月の塔から去ろうとしている。
ノーアに気づき、ゲイルは振り返った。
朝日に照らされる赤い髪。瞳が金色に輝いて見えた。
薄い服一枚でいることに気づき、ノーアは頬を赤く染めた。咄嗟に禊の後に羽織ろうと思っていたショールを引き合わせた。
「……早いな」
ほんの少しの沈黙の後、ゲイルが呟いた。
まだ外は肌寒い。太陽が東から顔を出したばかりで、朝の遅い貴族はまだ夢の中だろう。
ノーアは何を言っていいのか分からず、ゲイルの顔を見ることもできずに俯いた。この格好も恥ずかしいし、気安く話しかけることも躊躇われた。
戸惑っているノーアに苦笑しながら、ゲイルはそっと扉を開ける。
外には葦毛の馬が大人しく待っていた。
「そうだ」
扉の前で、ゲイルが立ち止まる。
なんだろうと、ついノーアが顔をあげる。
「手当て、ありがとう」
わずかに微笑んだゲイルに、ノーアは思わず見惚れた。
この塔にいたのはゲイルとノーアだけなのだから、放置していたままの手が手当てされていればノーアがやったのだと簡単に気づくだろう。まさかノーアはゲイルが起きていたとは気づかない。
ゲイルは馬に跨り、そのまま何も言わずに去って行った。
扉まで駆け寄り、ノーアは小さくなったその後ろ姿を、何も言わずにただ見つめていた。
清らかな水に半身を浸し、ノーアはただ目を閉じた。
何も考えない。
何も思わない。
禊とはそういうもの。
冷たい水と、まだ温まらない外気でノーアの身体は冷やされる。
小さな頃から毎日繰り返してきたことだ。夏も、冬も。もちろん苦ではない。
濡れた銀の髪から一滴の水が滴る。
泉に落ちて、波紋を描いた。
「オルヴィス王」
ぽつりとノーアが呟く。
その響きは思いのほか固く、中身のない言葉だった。当然だろう。彼の立場であってそれは彼の名前ではない。
しかし彼の名前を口にするつもりはない。
――憎まなければいけない。
彼はノーアからあらゆるものを奪った。
家族のように慕っていた王家を。よりどころであった国を。親しい人達すべてを。――ノーアの居場所を。
それでも彼は微笑むのだ。
あんなにも優しく、あんなにも柔らかく。
「どうして」
ノーアは俯いた。
その拍子に髪から雫が落ちる。
どうして殺せなかったのだろう。
あの時、彼を殺めていたならば――
「こんなに、心が揺らぐこともなかったでしょうに」
あの赤が消えない。
瞼を閉じても浮かぶのはあの優しい赤。
夕焼けのように温かい、あの穏やかな赤。
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