太陽の消えた国、君の額の赤い花
5
今までは修道女しかいなかった――そして今はノーア一人きりの月の塔に、数人の女官がやって来た。その他にも塔の外には二、三人の衛兵。一日に何回か入れ替わっていた。
監視だろう、とノーアは素直に思った。
自分のことをほとんど自分でしたことのないノーアにとって、女官というのは便利でもあったが、オルヴィス側の人間なのだと思うと、あまり心休まるものでもなかった。
后になれ、と言った。
それが戯言でないのであれば、城に移されるだろうと思っていたのだが、それは予想が外れてしまった。
見知らぬ城に閉じ込められるよりも、月の塔で軟禁の方がまだましだった。
ここは城から離れていて、静かだ。
何より、ここがノーアが知る世界のすべてだった。
ゲイルは頻繁に月の塔を訪れた。王都の外れにあるといっても、 馬で走れば城からすぐだ。
特にノーアに無理強いするわけでもなく、ただ側にいる。
あまり会話を交わすことはなかった。ノーアが全身でゲイルを拒絶しているのを悟っていたからだろう。
――気を許してはいけない。親しくしてはいけない。……アジムのことを、死ぬまで守り通さなければ――
呪詛のようにノーアは繰り返し繰り返し自分に言い聞かせた。
そうしなければ、今の非力な自分を庇護してくれる彼に寄りかかってしまいそうだった。
「陛下は、良い方ですよ。ノーア様……」
ほんの少し他よりも多く口をきく、セリという女官にそう言われた。
あんまりにもノーアがゲイルを拒んでいるので、それを見かねてつい口出ししてしまったのだ。
「――良い方かもしれなくても、私はあの人に婚約者を殺されたの」
そうきっぱりと言い放つと、セリも黙り込んだ。
世間的にはそうなっているのだ、こういうのが一番説得力があったし、アジムが生き残っていても代わりに一人の青年が亡くなったことに変わりはない。
「そこまで、王子を愛していたか」
良く響く、低い声。
部屋の入り口で、苦笑しながらゲイルが立っていた。その姿を見てノーアは何故か、しまったと思った。やましいことなんて何もないのに。
ノーアが沈黙を保つと、ゲイルは何も言わずに部屋に入った。セリが一度腰を折って一礼し、何も言わずに部屋を出る。ゲイルは窓辺にある椅子に腰掛けて、ノーアと一定の距離を取った。
扉には、ノーアの方が近い。彼なりの配慮なんだろうと気づいたのはもう随分前のことだ。
「……愛していたのか、王子を。イシュヴィリアナを?」
もう一度問われる。
質問を二度繰り返されるのは初めてだった。だから思わず、ノーアも答える。
「愛していたわ」
ノーアは迷いなく即答した。
それは恋心じゃなかったけど。
愛にもたくさんの種類がある。恋愛、友愛、親愛、家族愛――数え始めればきりがない。アジムに感じていたのは間違いなく家族愛に近しいものだった。
「――イシュヴィリアナも? 国王も?」
「もちろんよ。私はこの国を愛しているし、陛下は敬愛していた。……父親のようにも思っていたわ」
最後は余計だったかもしれない、とノーアは言ってから思う。
「――あの王は素晴らしい王だった」
窓の向こうの、青い空を見上げてゲイルが呟く。
その言葉でノーアに火がついた。
「だったらどうして侵略なんてしたの!? 放っておいてくれれば良かったのよ! 国王は国を豊かにするためには何をしてもいいというの!?」
「そうだな。国を豊かにするのは王の使命だ――でもイシュヴィリアナに攻めた理由はそれじゃない」
射抜くような強い目で、黄金に輝いて見えるようなその瞳でゲイルはノーアを見つめた。ノーアは射竦められて何も言えない。
「いずれイシュヴィリアナは滅んだだろう。その先にあるのは周辺の国々による土地の奪い合いだ。国は分裂し、民は死に、文化は失われていく。イシュヴィリアナという国があったという証拠すら残らない」
それが耐えられなかった、とゲイルは呟く。
「イシュヴィリアナという国は何百年後も――何千年後も残らなければならない。たとえ国という形を成していなくても。この国の文化はそれだけの価値がある」
「…………そんなのあなたの勝手じゃない。今じゃいけなかった理由なんてないわ」
怒りか、悲しみか、ノーアは瞳に涙を溜めて、それでもそれを零さずにゲイルを睨んだ。
今でなければ――おそらくオルヴィスはイシュヴィリアナを攻められなかった。国がまだ未熟である今だからこそ、出来たことだ。国が成熟し、平安を求めるようになってからでは戦争は起こせない。強引な戦いは出来ない。
そして現在のイシュヴィリアナ王家は、王と、その長男である王子だけとなっていた。その他の王子も姫も皆何らかの理由で亡くなっていた。それも一つの大きな要因だ。
しかしそんなことをこの目の前の少女に言っても意味はない。彼女は帝王学を知らないから。
ノーアにしてみればゲイルの自分勝手な理由で、当たり前の日常を、親しいもの達を奪われたのだ。
「――罵ってくれてかまわない。それはおまえに与えられた権利だ」
ゲイルが静かに呟く。
ノーアは何か言おうとして口を開き、困惑して黙り込んだ。
育ちのいい彼女には、人を罵るような言葉が分からなかった。心を深く抉るような言葉があれば迷わすそれを目の前の男に向かっていうのに、彼女の頭にそんな言葉はなかった。
迷いに迷った末で、呟いた言葉は――
「……陛下は、今」
どうなさっているの、と言った。
イシュヴィリアナ王が死んだのはもう二週間も前だ。そしてイシュヴィリアナは戦争に負け、侵略され、王子が処刑されて五日。
「……戦場から運ばれて、丁寧に埋葬した。……王子も」
「…………陛下は、どんな顔をしていた? ――アジムは?」
結局父のように慕っていた王の眠る顔を見ることも出来ず、ノーアはそれが悲しかった。一国の王が死んだというのに、葬儀も行われない。
ゲイルが迷っているのか、沈黙していた。
「正直に教えて」
「――穏やかな顔をしていた。二人とも。少し微笑んで……信じないかもしれないが」
そう、とノーアは呟く。
アジムとして死んだジルダスに、悔いはなかったのだろう。彼は本当にアジムに尽くしてきた。病魔に冒された身体を使って、最期にはアジムとして死んだ。それはきっと彼にとって誇りある死だったのかもしれない。
「……楽園には、王妃様も姫君もいらっしゃるもの。陛下はきっと、寂しくないわね」
愛した妻が待つ場所に逝ったのだから、そう悪くはなかったのかもしれない。
ゲイルが教えてくれた真実は、嘘かもしれない。でもノーアの心は少し救われた。悔いのない死だった。それはノーアにとって、ほんの少し喜ばしい知らせだ。失った悲しみは癒えないにしろ、少しは心が軽くなる。
アジムはきっと、長い時間をかけてオアシスへ辿り着くだろう。あの土地は不可侵の場所。逃げ切れればアジムの将来も穏やかで優しいものになるに違いない。
「――ありがとう。教えてくれて」
儚く微笑みながら、ノーアは初めてオルヴィス王に感謝した。
ゲイルに見せる、最初の笑顔だった。
ノーアは気づかない。
それがどれだけゲイルの心を揺さぶるかを。
どんな罵りよりも重い言葉だったのだと。
ゲイルはノーアの、散りゆく花のような微笑みを見つめて、胸を痛めた。
罵ってくれれば楽なのに。
よりにもよって、ありがとうなんて。
この瞬間――ゲイルの心には確実に、ノーアの笑顔が焼きついていた。
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