太陽の消えた国、君の額の赤い花

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22

「あなたも行っていいのよ、セリ。故郷に帰りたいでしょう?」
 穏やかに微笑む主人を真っ直ぐに見つめて、セリは首を横に振った。
 薄情な他の女官は、ノーアがオルヴィスへ行く意思がないということを告げるとそそくさと自分達だけ身支度を始めた。もとより王の帰還と共にオルヴィスへ帰る予定だった彼女達は仮初の主などどうでもいいらしい。
「私はノーア様に仕えているんです。ノーア様がここに残るとおっしゃるなら、私もオルヴィスへは帰りません」
 セリはオルヴィスの中流階級の娘だ。今までも仕事で何度か貴族の姫に仕えたことがあった。
 そしてノーアに出会って、ようやく自分が全身全霊をかけて仕える人を見つけたのだと嬉しくなったのだ。
 貴族以外は人間じゃないというように蔑む過去の主人とは違い、ノーアは控えめで思慮深いとても魅力的な人だ。セリのことも気遣ってくれる優しい人だ。
「ここに残るのがラトヴィア様だけでは大変でしょう? 私なんかがいても役に立つと思いますよ」
「……セリは充分に役に立ってくれてるわ。でも家族はオルヴィスにいるんでしょう?」
「平気ですよ、もともとあんまり会えませんし。オルヴィスなんてそう遠くないですし!」
 明るく笑うセリにつられて、ノーアも微笑んだ。
 別れの時は、もう明日に迫っていた。





 あの日から、ゲイルは月の塔に来なかった。
 『オルヴィスはそう遠くない』――そうだろうか?
 今までのように呼んでも、すぐに駆けつけてはくれないのだ。涙を拭ってくれるほどの距離にはいないのだ。叫び声も届かない、遠い異国。
 永久の別れじゃない、それは分かっている。
 側にいたい。いつでも会える距離にいたい。でもきっと、近くにいればアジムのことを零してしまうかもしれない。
 だから、イシュヴィリアナに残る。
 もう決めたのだ。




「――いいんですか、ノーア様」
 ラトヴィアが眠る前にやって来て、そう問いかけた。
「……いいの。どうせ后になんてなれるわけがないし。見知らぬ土地なんて怖いもの」
「私が迂闊に殿下のことを話したからですね」
 ノーアはラトヴィアを見上げる。
 彼女はアジムの生存を知らないはず。なのにどうしてそんな答えに行き着くのだろう。
「ラトヴィア、どうして……」
「申し訳ありません。聞いてしまったんですよ。お二人の会話を……」
 淑女のすることじゃありませんね、と苦笑しながらラトヴィアが言う。
「アジム様は、生きていらっしゃるんですね」
 ほっと安堵したように、優しく微笑む。思えばラトヴィアはアジムに対しても容赦なかった。一国の王子に面と向かって説教できる女性はこの世に何人いるだろう。
「……最愛の人に会いに行ってるわ。イシュヴィリアナという名前は捨てて、ただのアジムとして」
 そう言えばラトヴィアにも分かるはずだ。アジムの初恋話は結構有名だった。
「そうですか……まぁ、それが良いんでしょうね。安全でしょうし、幸せでしょうから」
 地名を口に出さなかったノーアの配慮を理解してか、ラトヴィアもオアシスとは言わない。賢い女性だ。
「でもノーア様、アジム様もきっと、ノーア様の幸せを望んでいらっしゃいますよ」
「……分かってる。でも、私今のままでも不幸じゃないわ」
「不幸ではないのと、幸せなのは同じじゃありませんよ」
「…………分かってる」
 誰かに今幸せかと問われれば、ノーアは少し迷いながらも首を横に振るに違いない。しかしノーアは物足りなさの原因を理解していても、それを求めない。




 ――昔、アジムから彼の淡い恋について聞かされた時に、悲しくなった。
 とても可愛がられていた。彼の一番は自分だと、そう思っていたのかもしれない。それほどにアジムはノーアを気遣ってくれていたのだ。


『……わたし、身代わりなの?』
 遠いオアシスの姫の代わりに、こうも大事にしてくれているのかと、ノーアがアジムに聞いた。
 アジムとノーアが出会ったのはちょうど、アジムがオアシスの訪問を終えた直後だった。
ノーアが六歳くらいの頃だ。
『どうしてそう思う? ノーアはノーアで、彼女は彼女だよ。誰も誰かの代わりになんてなれない』
『じゃあ、わたしが聖女だから? だから優しくしてくれるの?』
 そう問いかけるとアジムは困ったように微笑んだ。
『ノーアだから、大事なんだよ。聖女だとか関係なく。妹みたいなものかな。家族は大事だろう? 友達とか』
『……分からない』
 ノーアには家族なんていなかったから、分からなかった。唯一母のように感じた先代の聖女はもう亡くなっていたし、家族という概念がノーアの中には存在していなかった。大人ばかりの月の塔には友達と呼べる存在もいなかった。
 それに気づいたのだろう、アジムはノーアの髪を優しく撫でながら提案したのだ。
『じゃあ、家族になろう。ノーアが妹で、俺がお兄ちゃんかな。それで、友達でいよう。家族でもあって友達でもある。すごいだろ?』
 よく分からなかったけれど、子供の頃のノーアにはそれが確かに凄い考えのように感じて、素直に頷いた。
『そうして分かればいいよ。家族とか、友達とか。そしたらきっと、いつか俺の気持ちも分かるから。ノーアは友達で、家族だから……だから大切なんだ』





 オルヴィスへ行かないと決めたことに後悔はしない。
 アジムの為、それは自分の為でもある。


 けれど――このままゲイルと別れれば、きっとそのことを後悔する。




 ノーアが目を覚ますと、まだ少し暗かった。
 朝日が昇る前なのだろう。窓の向こう――太陽の昇る東の空を見れば徐々に明るく、闇を取り払うかのように空が赤く染まっていく。
 息を呑むような朝焼け。
 彼の鮮やかな髪の色。
 まだ、間に合うはず。
 
 

 





 見間違いかと、ゲイルは目をこすった。
 空が赤く染まる。その中で一人の少女が馬に乗ってこちらに向かってくるのだ。
「――――ノーア」
 息を切らしながら、ノーアは馬から下りる。
 幻じゃないだろうか。朝焼けが蜃気楼を見せるなんて聞いたことがないけれど、彼女がここにいるはずがないのだ。
「……ゲイル」
 名前を呼ばれて、やっと目の前の少女が自分が作り出した幻でないと分かる。
「どうして――――」
 ノーアはオルヴィスへ行かないと、そう決断したのは数日前に分かっていた。月の塔にいた女官は皆引き上げで口々にそう言っていたのだ。仕方なくイシュヴィリアナの城に残る女官を数人、月の塔に行くように手配したのは他ならぬゲイルなのだから。
「……ごめんなさい、オルヴィスへは行けない」
 それは予想していたはずの言葉だ。それなのに、思った以上に鋭く胸に突き刺さった。
「……そうか」
 荷物も持ってきていないノーアが、まさかこのまま共にオルヴィスへ行くなんて言い出すわけがない。それでも少し期待していた自分を笑った。
「でも、あのままさよならは嫌だったの。だって色々、確認したいこともあったし――」
「確認?」
「次はいつ、会える?」
 それはもう二、三日後のことではないと分かっているはずだ。ノーアの瞳はわずかに揺らぎながらゲイルを見つめていた。
「……確約はできないが、数ヵ月後だな」
 数ヶ月――ノーアは俯いてそう呟いた。
 その姿に、ゲイルは少し自惚れてしまいそうになる。
「……手紙を出しても、迷惑にならない? というか、ちゃんと届くかしら」
 国王への手紙はたくさんの人間の手に渡り安全を確認されてから、本人に届く。元敵国の人間からの手紙と、握りつぶされたりはしないだろうかとノーアは不安だった。
「どうして迷惑になるんだ――無理にでも、届けさせる。必ず」
「良かった」
 ほっと安堵したように微笑むノーアを思わず抱きしめたくなって、ゲイルは必死で堪えた。
「いい雰囲気のところ申し訳ないんですけどね、陛下。もうそろそろ出発ですよ」
 ロハムが頭を掻きながらおずおずと声をかける。
 オルヴィスへ早く着くために、わざわざこんな朝早くから出発するのだ。
「――ああ」
 せめてあと五分と言いたくなったが、国王が時間を遅らせると他に示しがつかない。
「……気をつけて。必ず手紙を書くから」
 ノーアが少し悲しげにゲイルに微笑む。そっとその白い手を握り、ゲイルも微笑み返した。
「オルヴィスに着いたら、知らせる。……元気で」
 握られていた手が離れる。触れていたところはやけに風が冷たく感じた。
「ゲイル。少し屈んでくれない?」
 離れていこうとするゲイルの上着を掴み、ノーアは引っ張った。
 意味が分からず、首を傾げながらゲイルが屈む。いつもより近い距離にある顔にノーアは少し照れながら、背伸びをしてゲイルの額にそっと口付けた。
「――おまじないよ」
 掴んでいた上着をぱっと離すと、赤く染まった顔を隠すようにノーアは俯いた。
 不意をつかれたゲイルはしばらく固まって、少し時間を使ってようやく事態を飲み込む。ゲイルは可笑しくなって、笑い出した。まさかこんな不意打ちがあるとは思わなかった。
 俯いたままのノーアの前髪をかき上げ、同じように額に口付けた。聖女の印であるという、額の赤い花に。
「なっ……」
 ノーアが顔をさらに赤く染め上げて、顔をあげた。
「またな」
 ゲイルはノーアに背中を向けたまま手を振る。にやけた顔を見られたら格好がつかない。
 王を先頭に、オルヴィスへ帰る一団。
 その姿が見えなくなるまで、ノーアは立ち尽くした。
 見事なまでの朝焼けはいつしか青く変わり、爽やかな風がノーアの髪を攫う。心地よいまでの一日の始まりだ。


「また、いつか」


 ぽつりとノーアは呟く。
 さよならはどちらも言わなかった。


 また会えると信じているから。





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