太陽の消えた国、君の額の赤い花

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29

 柔らかな陽光が窓から部屋を温め、穏やかな時間の流れる昼下がり。
 この穏やかな時間も偽りのように感じるほど、ノーアの身の回りは慌しい。月の塔を囲むように幾人かの衛兵が立っていることも、かつてイシュヴィリアナが繁栄していた頃には考えられなかった。


「……ねぇ、ラトヴィア」


 落ち着かなさげに本を閉じたり開いたりしているノーアの傍らで戸棚を整理しているラトヴィアは、ようやく切り出したかと振り返る。
「なんですか、ノーア様」
 小さな頃から見てきただけあって、こういうタイミングはきっちり掴んでいる。話し出すのに時間がかかるのはノーアの悪い癖だ。
「ラトヴィアは結婚は――してないわよね、ええっと、その」
「恋の一つや二つはしましたよ、これでも昔はそれなりの美人だったんですから。何十年も昔からここにいたわけじゃありませんし」
「そ、そうよね。それで? どんな恋だったの?」
 話のそれたことに気がついてラトヴィアはため息を吐き出す。肝心なことを聞くにはまだ時間を与えなければいけないらしい。
「ごく普通の恋ですよ。結婚の約束をした人もいました」
「……え、でも」
「結婚は、してませんよ。婚約中にその人が亡くなってしまったので。だから修道女になったんです」
「――それほど、その人のことを愛してたの?」
 他の誰とも結ばれようと思えないほどに。
 ラトヴィアは優しく微笑んでいいえ、と答えた。
「本当に心の底から愛していたのかと言われれば、たぶん違います。でも、結婚するのはその人だと思っていましたから――それ以外は考えられなかったんです」
「……愛していなかったの?」
 予想とは違ったラトヴィアの返事に、ノーアは首を傾げた。
 ラトヴィアの答えはまた一緒だった。
「長い人生を共に生きていこうと思えるくらいには愛していましたよ。この人となら穏やかに、幸せに暮らせるだろうと。そうして時間を重ねていけば、誰よりも愛していたと言えたでしょうね」
 懐かしむように微笑むラトヴィアに少女の頃の面影が見えたような気がした。
 消えてしまった未来を、ラトヴィアは今どう思うのだろう。
「……私は、ずっとアジムと結婚するんだと思ってた」
 幼い頃に周囲の大人達に決められた婚約。それはもう刷り込みのようなもので、その未来を疑うことはなかった。
「それでも幸せになれたと思う。たとえアジムが他の誰かを愛していても、私を蔑ろにはしなかっただろうから。ラトヴィアの言っているのと似てるかもしれない」
 年を重ね、共に生きていけばそれは愛に変わったかもしれない。
「――決められた道しか知らないから、こうして目の前の道がかき消されて……どうすれば良いのか分からないの。自分の思うように動くのって、意外と難しいのね」
 苦笑するノーアを、ラトヴィアは優しく抱きしめた。
 ノーアは、知ることのない母親のぬくもりのようなその温かさに、まどろむように目を閉じる。
「ノーア様には数え切れないほどの選択があるんです。ここから逃げて、聖女でもなんでもないただの少女として生きていくことだって出来ます。オルヴィス王の求婚を受けることだって、断ることだって自由です。けれどノーア様――あなたが幸せになれる道を、選んでください」
「……難しい宿題ね」
 正しい選択をしろ、と言われるほうがまだ簡単な気がする。
 幸せになれるかどうかなんて、未来の自分しか知りえないのだから。
「難しくなんてありませんよ。ノーア様――もう答えはあなたの中にあるのでしょう?」
 ああ、この人に隠し事なんて出来ないな、とノーアは苦笑した。



 あの夕焼け色の髪が懐かしい。
 金色にも見えるあの瞳を見つめたい。
 あの人が私を求めるのは、国王としてなのだろうか?
 対等でありたいと、そう言ったのもオルヴィス王としてなのだろうか?



 分からないから――まだ、この地から旅立てない。










 夜の帳が落ち、部屋には明かりが灯された。
 窓の向こうで淡い輝きを放つ月を見上げてノーアは一つ決意する。


 聖女は月の象徴。
 太陽たる王を支え、暗闇をそっと照らし続ける存在。
 王が消えた今、月が輝く術はない――ないはずなのに、その輝きはかつてよりも増しているように感じるのだ。
 イシュヴィリアナは滅び、ノーアはゲイルと出会った。
 それが運命というのなら。
 彼と共に生きたいと願うこの心も、何かの導きだとでも言うのだろうか。


 今はまだ、決断できない。
 彼の思いが分からないから。
 もしも次に、オルヴィス王としてではない、ただのゲイルの口から、ノーアを求める言葉が聞けたなら、そのときは――。


「ノーア様」


 ノックと共に、聞き慣れない声がしてノーアは振り返る。
 いつもならこの時間、セリが紅茶を運んでくれるはずだ。
「どうぞ」
 ノーアがそう応えた後に入ってきたのは、月の塔の中で働く女官に違いはなかった。塔の中で何度か目にしたことがある。
 もとよりセリとラトヴィア以外は必要以上にノーアに近づかなかったし、またロハムの忠告以来、ラトヴィアが監視の目を光らせて近づけさせなかった。
「失礼します。セリに代わり、お茶をお持ちしました」
「……セリは? 何かあったの?」
 いつもこのお茶の時間に、一人では退屈だからとセリも同席させていた。その時間をセリも楽しみにしていたはずなのだが。
「風邪をひいてしまったみたいで。幸い微熱程度だったので早くに休ませました。すぐに回復すると思います」
 そういえば、少し具合が悪そうだったなとノーアは思い、納得する。
「……そう。お大事に、と伝えておいてくれる? お茶どうもありがとう」
「はい、確かにお伝えします」
 あまり話したことのない女官だが、笑顔がとても魅力的だった。時期が時期でなければ、セリのように親しくしたいところだ。
 結局今日は一人で本でも読んでいるしかなさそうだ。
 紅茶を飲みながら本を読むなとラトヴィアが見ていれば叱り付けてくるところだが、今彼女は別の仕事で忙しくノーアを監視することはできない。
 読みかけだった本を開き、まだ熱い紅茶を口に含む。

 ほんの一瞬の違和感。

 ちり、と喉が焼けるような痛み。


「――――――――っ!!」


 言葉にならない悲鳴と共に、ノーアは椅子から倒れる。熱い紅茶は零れ、ティーカップは粉々に砕け散った。
 身体が全力で飲もうとした紅茶を拒絶している。
 喉が、胃が、焼けるように熱い。
 胃の中にあるものすら喉から這い上がって、ノーアは我慢しきれずに吐き出した。


「ノーア様!!」

 風邪で眠っているはずのセリが物音を聞いて駆けつけてくる。
 意識が朦朧とするなかでどこか冷静な自分が毒だと訴えてくる。
「ノーア様! しっかりなさってください! ラトヴィア様!! お医者様を呼んでください!!」


 闇に埋もれていく意識の中で、あの女官の笑顔だけが張り付いて消えない。
 誰も信じるなと言われているような気がした。






「……………ィ……ル」








 掠れた声で助けを呼ぶ。



 駆けつけて来れるはずのないあの人の名前を。






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