太陽の消えた国、君の額の赤い花

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30

 ――――ゲイル。


 懐かしく、いとおしい声に呼ばれた気がして、ゲイルは立ち止まり振り返った。
 しかしそこに彼女の姿があるはずはない。
 振り返った先の美しい月を見上げて、ゲイルは首を傾げる。
「――ノーア?」
 呼んでみたところで返事はない。
 幻聴がするなんて――禁断症状もくるところまできたかとロハムに笑われるんだろうなと頭を掻く。


 妙な、胸騒ぎがした。









 何もない、真っ白な場所でノーアは目覚めた。
 生死の境を彷徨い、かつて辿り着いた場所とは違う。
 どこまでも限りなく白く、どこが終点なのかも分からない世界。ただの一色で塗り固められたその場所は、あらゆるものを拒絶しているように思えた。
「……私、死んだのかしら。でもここは楽園じゃないわよね」
 かつてニルに刺された時に再会した、ジルダスの姿もイシュヴィリアナ王の姿もない。
 ただ独り。
「……ここは、どこなの」
 呟きは空間に跳ね返されて、響き渡る。
 自分の発した声だけがこの世界の音のすべてだった。
 何もない――ただそれだけなのに、無性に恐ろしかった。
 白はすべてを拒絶する。
 闇はすべてを包み込むことで時には安らぎすら与えてくれるというのに――真っ暗な暗闇なら、これほど恐ろしいとは感じなかっただろう。
 ゆっくりと立ち上がり、行くあてもなく歩き始める。
 足元には影も出来ない。
 どれほど歩いたのか、距離も時間も分からないまま、ただ歩き続けた。そうすることでしか自分の存在を確認できない気がした。
 この恐ろしい白き世界から逃げ切れば、死から逃れられる気がしたのだ。
「死にたくない」
 伝えるべきことも伝えていない。自分に託された生をまっとう出来ていない。まだ、幸せになんてなってない。
「――死ねない。今はまだ死ねない!」
 もしこれが定められた運命なら。
 こうして命を終わらせるのが自分の最期なら。
 せめてもう一度だけでいいからあの人に会いたい。



「ゲイル」



 会いたい。
 だからまだ死ねない。
 ノーアを突き動かすのはただそれだけだった。












「ゲイル!!」
 私室を蹴破る勢いで駆けつけて来たのは案の定、幼馴染のロハムだった。
「どうした、珍しいな名前で呼ぶなんて」
 昔からロハムには名前で呼ぶことを許している。公式な場では礼節を弁えなければいけないが、二人きりや気の置ける者同士の時は気安く呼んでいいと。それでもロハムは厭味なのか皮肉なのか、いつも国王陛下と呼んでいた。
「んなことはどうでもいい!! 聖女に毒が盛られた!!」
 普段ノーアを聖女様、と呼んでいるのに敬称が消え去っているということは、それだけロハムに余裕がないということだろう。
 端的に述べられたはずなのに、飲み込むまでにかなりの時間がかかった。
 聖女――イシュヴィリアナの聖女――あの、銀の髪の――……。
 血が凍るような思いというのは、これで二度目だ。一度目もノーアの命の危機だった。
呼吸が思うように出来ない。情けない事に指先が震えていた。
「反、イシュヴィリアナ派か」
「実行犯は既にラトヴィア様が捕らえたと――裏で動かしていた人間が誰かは分からない」
 犯人が誰かなんて今はそんなことどうでもいいだろうともう一人の自分が頭の中で訴えてくる。
 早く、早く、彼女のもとへ。
 駆けつけたいのに、国王としての立場がそれを許さない。
 苛立ちを押さえようと唇を噛み締める。かすかに血の味がしたので傷ができたかもしれない。
「……運べるだけの書類は追って届けます。とりあえず俺は残って仕事を片付けます」
 ロハムがため息まじりにそう言う。
 幻聴ではないかとゲイルがロハムをまじまじと見返すと、ゲイルの上着を押し付けながらロハムが笑う。
「どうせ、ここにいても仕事なんて手につかないんでしょう?」
「…………悪い」
 上着を受け取り、ゲイルは呟く。
「いつも、おまえに甘えてばかりだな」
 残されたロハムはあの偏屈爺どもから厭味を言われ、たくさんの仕事に忙殺されるに違いない。
「慣れてますよ」
 だろうな、と笑い、ゲイルは愛馬のもとへ急いだ。
 早馬からの知らせとはいえ、ノーアが倒れてからすでに半日が経過している。このまま誰にも止められることなく彼女のもとへ駆けつけられても、月の塔に着くのは日が暮れてからだろう。

「――――……ノーア」



 どうか、無事で――――。











 白く染まる世界。
 光という光を反射し、闇という闇を寄せ付けない。
 世界に昼と夜がある理由が痛いほど分かった。
 いつも明るい世界のままでは人は生きていけないに違いない。人を包み込む、安らぎの闇があるからこそ人は眠りにつけるのだ。
 闇が恐怖の対象なのではない。
 光という存在が闇によって神聖化されただけなのだ。
 光のみの世界は――これほどまでに恐ろしい。
 ノーアが出す音だけが、その世界に響き渡る。足音、呼吸、服がこすれ合う音。ただそれだけがすべてで、嫌でも意識は自分の中に集中した。
「ラトヴィア、セリ……ロハムさんに、アジム」
 向こうで自分を待っていてくれるだろう人の名前を呟いた。
 いつも月の塔を守ってくれている衛兵。名前は知らないが、よく話はした。それに、ゲイルから贈られた愛馬も――そういえば、最近は遠出していない。
「――――ゲイル」
 以前に自分が生死の境を彷徨っていたとき、救い上げてくれた光。
 温かい、夕焼けのような朝焼けのような――光から闇に、闇から光に世界が変わる時の色。

 そうだ。道しるべなんて必要ない。道案内なんて意味はない。
 ノーアは帰るべき場所を知っている。以前のように、楽園に捕らわれたりしない。楽園へ行くことを望んでいないのだから、楽園へ導かれなかったのも頷ける。




 ただ歩けばいい。
 光はいずれ見えてくるはず。



 きっと――彼がこの白き地獄から救い出してくれるだろうから。




 
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