太陽の消えた国、君の額の赤い花
34
誰の目に見ても分かるほどに浮き立つセリを眺めて、ノーアは苦笑する。
部屋の掃除もいつも以上にはりきり、いつも以上に空回り気味だ。
「……セリ、あんまり張り切らないでね」
張り切る分だけ、物が壊れそうな気がするのはおそらくノーアだけではないだろう。
「だって! とっても嬉しいんです! ずっと陛下とノーア様が上手くいけばと影ながらお祈りしていたんですもの!」
その喜びこそが一番の空回りだと本人はまるで気づいていない。
「ノーア様が王妃様になられるなんて……! 夢みたいです。本当に」
「そんな……」
本当に王妃になるなんて、今はまだ分からないわよ?
そう口に出しそうになるのを、ノーアは理性で飲み込んだ。
ノーアの部屋の本棚を嬉しそうに整理しているセリにその言葉をぶつければ大事故になりそうだ。
「セリ、いつまでもノーア様の邪魔をしないの。他にも仕事を言いつけたはずでしょう」
呆れたようにラトヴィアが扉の向こうから顔を出し、セリは自分が抱えていた分の本を慌てて片付けた。
「す、すみませんっ! 今行きます!」
真面目なのはいいが、少し抜けているところがセリの欠点とも言うべきか、ラトヴィアはため息を吐き出し、ノーアに午後の紅茶を差し出す。
「騒がしいでしょう、ノーア様」
嫌なら追い出していいんですよ、というラトヴィアの言葉は部屋から駆け出していってセリには聞こえていないだろう。
「賑やかでいいわ」
一人いるだけで十人分以上の賑わいがあるのも問題だが。
読みかけの本を傍らのテーブルに置き、紅茶に手を伸ばす。
いつも砂糖も入れずに飲むノーアの為の紅茶は、ストレートであることがほとんどだ。セリなどは間違って砂糖を入れて出すことも多いが――そういう場合ノーアは何も言わずに飲み干してくれる――時折、ラトヴィアは甘いミルクティーを淹れてくれる。
それは決まって、ノーアが落ち込んでいる時だ。
「…………ラトヴィア、私は平気よ?」
甘いミルクティーがなくても。
「ノーア様が言う平気は信用できませんから。いつもいつも溜め込みがちです」
長年の付き合いである彼女を誤魔化そうなんて気はもともとないのだが――そこまで信用のない自分に、ノーアは苦笑する。
「本当に、よろしかったんですか?」
ラトヴィアの声は静かに、そして重く部屋に響く。
婚約のことだと、聞かなくても分かった。
高い高い月の塔の最上階にあるノーアの部屋に足を運ぶのは――否、運ぶことができるのはラトヴィアとセリだけだ。それ以外の女官は立ち入りを禁じられた。ノーアが暗殺されかかったあの時から。
だからなのだろうか、以前よりも日々は余計に静寂に包まれ、それはまるでアジムがいて、イシュヴィリアナがあったあの頃のように平穏だった。
「――――ラトヴィア、私、後悔はしてないわ」
例えばこのままの流れでゲイルと結婚することになっても、そうならなくてもだ。
「しかしノーア様、婚約されれば次は結婚をと、結婚すれば次は世継ぎをと、ノーア様への負担は増える一方です」
「それはアジムと結婚しても同じことだったでしょう。それなりの覚悟は私にだってあったわ。――ねぇ、ラトヴィア」
凛としたノーアの声は、それほど大きくなくても皆を黙らせるだけの威力があった。この場のたった一人のラトヴィアを黙らせるには充分過ぎる。
「……例えば明日には永遠の別れが待っているとして、後悔しない恋なんてあると思う?」
それは、一体。
「……どういう意味ですか」
永遠の別れなんて、そんな、縁起でもない――。
「例え話よ」
そう言いながら微笑むノーアの顔がいつも以上に儚く見えるのは、錯覚なのだろうか。
「私、後悔だけはしたくないわ。これから先、どんな道を進もうとも私の前にあるのは平穏な、静かな道ばかりじゃない。きっといろんなことに巻き込まれるし、誰かを巻き込むんでしょう……イシュヴィリアナが滅んで、今まで示されていた未来も消えたわ。私の前にあるのはゲイルが好きっていう確かな思いだけなの」
ラトヴィアはすとん、と力が抜けたように椅子に座る。
ラトヴィアの前でゲイルへの思いを確かに口にしたのはこれが初めてだ。
「ゲイルが私のことをどう思っていても、私はゲイルが好きだから。私は、こうして繋がりを持っていられるだけでも充分に幸せだから……辛い未来が待っているとしても、たぶん大丈夫」
ノーアの脳裏に蘇るのは、真っ白な死の世界。
そこで出会った『リアナ』
彼女の言葉は、憶測ではないのだろう、おそらく必ず何かが起こる。
「私は遺されたイシュヴィリアナの者として、最期まで幸せでなければいけない。最期の瞬間には微笑んで死ねなければいけない。後悔なんてしてたら、それは望めないでしょう?」
微笑むノーアの顔に、曇りはなかった。
澄み切った秋の青空のように清純で、春の花のように美しい。
少し冷めたミルクティーを一口飲んで、美味しいとノーアは呟く。ラトヴィアはどういう表情をしたらいいのか分からずにただノーアを見つめていた。
いつの間に、こんなに成長したのだろう。
まだまだ子供だと思っていたのに。
「……恋がしてみたいと、ずっと思っていたわ。アジムのように、一途に、誰かを好きになりたかった。少し自惚れてみたり、落ち込んでみたり、浮かれたり、そういうことがいちいち楽しいものなのね」
彼が私を愛してくれているのだろうなんて、そう勝手に思って、違うと気づけば落ち込んで、彼からの手紙を喜んで。
「殿下は、最初から両思いでしたよ」
「そうね、ズルイけど、その分損してるわ」
「そうですね、恋の醍醐味は片思いしている間ですから」
くすくすとノーアが笑う。
ああこの人も難儀な相手に恋をしてしまったんだな――ラトヴィアは困ったように微笑んでノーアを見つめる。
「今、アジムに会いたいなって思うの。私の片思いの相手を知ったらアジムはどうするかしら?」
ノーアを実の妹のように可愛がっていたアジムの姿を思い出し、ラトヴィアは笑う。
「思い切り反対するか、協力するかのどちらかでしょうね」
「やっぱりそう思う? たぶん最初物凄く反対して、それでも私が諦めなかったら味方になってくれるんだろうなとか考えてたの」
おそらくノーアの見解で間違いないだろう。
高く聳え立つ月の塔の最上階からは遠くまで見通せる。
しかしその先にある砂の海までは見えない。
「……どこに、いらっしゃるんでしょうね」
ラトヴィアは遠く見えない砂漠を想像しながらぽつりと呟く。
イシュヴィリアナの王子であるアジムが逃亡し、砂漠の中にある不可侵の都――オアシスへ向かおうとしていることを知っているのはノーアとラトヴィアの二人だけだ。
本来イシュヴィリアナはオアシスへの最短のルートを持っていたので、天候さえ良ければ約二日で辿り着けるはずだ。しかしアジムはその最短の道をあえて避けてかなり遠回りしているはずだ。オルヴィスの目を避けて。
「さぁ、どうかしら。でも目的地ははっきりしてるもの」
そう冷静に答えるノーアも、内心では心配しているに違いない。
この世に残されたたった一人の家族なのだ、ノーアにとっては。
「ラトヴィア、おかわりはあるかしら?」
空になったカップを持ち上げて、ノーアが問う。
「少々お待ちください、すぐに淹れてきます」
すっと立ち上がり、ラトヴィアは扉を開ける。すぐそこの廊下の先には長い長い階段が待っている。
「砂糖を多めにしてね」
「かしこまりました」
ほんの些細な不安でも、胸をかすめたときに、
甘い甘い紅茶は、心をほんの少しだけ和ませてくれる。
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