太陽の消えた国、君の額の赤い花

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35

 ――――懐かしい、砂の香り。


 身体を覆うマントを剥いでしまえばその一粒一粒が痛いほどに身体を打ち、目や鼻に侵入してくるのだ。
 見渡す限り、枯れた砂の大地。
 風が砂を吹き上げ、動かし、大地はまるで波のように模様を作り出す。晴れた青い空が眩しいほどに明るく見えた。
 もう少し歩けば水と緑のオアシス。
 半年以上をかけて、ようやく辿り着いた。
「……あともう少しだ、行こうガジェス」
 後ろからずっと着いてくる、王子であった頃からの部下は何も言わず歩を進めた。
 彼の無口な性格が、今は少し嬉しい。
 ようやく会える。
 十年もこの時を待った。
 いとおしいオアシスの姫君。






 大陸の六割は砂漠というこの世界で、水が何よりも価値のあるものなのは至極当然だった。
 どの国も水不足に喘ぐ中、砂漠の中の――最大のオアシスは地上の楽園とも、神に愛される土地とも呼ばれている。
 そこは千年以上前から存在が確認されていた。
 土地の性質上、各国が喉から手が出るほど欲しがるのは当たり前だったが、誰も手を出さなかった、否、出せなくなった。
 かつて何度も砂漠を渡り、そのオアシスを侵略しようとした者達は皆、無事に帰っては来なかった。オアシスを目指す途中に砂嵐に遭ったり、広大な砂漠で迷い帰り道すら分からなくなったりしたのがおおよその原因で――結果としてオアシスは常に平和だった。
 いつしかそこは手を出してはならぬ――手を出せば滅ぶ、禁断の土地になった。
 今もそこは平和なまま、オアシスの民が不自由なく暮らしている。




 アジムがかつて訪れたのは、もう十年も前のことだ。


 イシュヴィリアナは古くからオアシスとの交流が盛んだった。
 王家の人間が訪れることも珍しくなく、アジムもその中の一人に過ぎない。
 そして、これから行く自分は、『イシュヴィリアナ』とは名乗れない。
 その名はもう捨ててきたものだ。もう自分にその名前を名乗る資格はない。その資格を、泥に投げ捨てて自分は選んだのだから。

『……王族だって、人間なのよ。自分の生きたいように生きて、いいじゃない』

 逃亡当夜のノーアの言葉を思い出す。
 その言葉にどれだけ救われたか、言った本人は全く気づいていないんだろう。
 自分の安否を気遣ってくれているんだろうか。それならば――どうにかして、無事オアシスに辿り着いたと知らせたかった。
「――――ガジェス」
 何ですか、と背後から声がした。
 もう部下ではないのだから並んで歩けと言っても聞かないので、アジムも仕方なくそのまま続けた。
「オアシスに着いたらノーアに手紙を書いてくれ、おまえの名前で。無事に着いたと……直接はまずいかもしれないな……ラトヴィアはまだ月の塔にいるだろうか」
「ラトヴィア殿なら、おそらく」
 ガジェスの端的な返事がかえって安心感を増させた。
「そうだな、ではラトヴィア宛てに。彼女なら分かってくれるだろう」









 ゲイルとの手紙のやり取りも、その中で彼がノーアを気遣うのも、ロハムが手紙を届けてくれるのも――何も、以前とは変わらない。
 警備はノーアが気にならない程度に増やされ、ノーアの身の回りの世話はラトヴィアとセリにのみ任された。もともとノーア自身が自分から動くことを苦に感じないので、それで支障はなかった。
 そうして、ノーアが暗殺されかかってから数ヶ月が経った。
 穏やかで、平和で、静かで――それはもう随分と昔に感じる、イシュヴィリアナがあった頃のように。
 それが嵐の前の静けさなのだとしても。
 ノーアには懐かしく、いとおしい日々だった。


「ノーア様!!」
 慌ててラトヴィアが手紙を持ってきた時は、単純にゲイルからの手紙だろうと思った。
 この塔に届けられる手紙なんてそれくらいしかなかったから。いつもロハムは直接ノーアに手渡すのに、変だな、と思うくらいで。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「これを、読んでください」
 そう言ってラトヴィアが手渡してきたのはまだ封の切られていない、ラトヴィア宛ての手紙だった。
「何言ってるの、これラトヴィアへの手紙じゃない……――っ!」
 そう言いながら手紙を返し、差出人を確認してノーアは息を呑んだ。
 ガジェス・ルイザス
 それは、アジムの側近で、彼と共に逃亡しているはずの人の名前だ。
「…………これ」
「殿下が手紙を出すわけにはいきませんから、ガジェス様の名前を使ったんでしょう。私宛なのも同じ理由ですよ」
 ラトヴィアがすべて言い切る前に、ノーアは手紙の封を切った。
 中からはごく普通の便箋が出てきた。封筒もそれほど質のいいものじゃない。
「……なんて?」
 書いてありますか、とラトヴィアが隣から問いかけてくる。手紙を覗き込まないあたりは彼女らしかったが、本心ではすぐにでも手紙の内容を知りたいのだろう。
「…………無事、主と共に目的地まで辿り着きました。ご安心ください……ですって。やだ、もう、本当にガジェスらしいわ。もう少し何か書いてくれてもいいのに」
 そう呟くノーアの瞳から涙が零れる。
「余計なことを書いたら、不味いってことしか頭になかったんでしょうね。本当に頑固なままで」
 そういうラトヴィアの瞳も潤んでいた。
「良かった……これでもうアジムは無事なのね、もう大丈夫よね」
 オアシスは不可侵の土地。それが各国での暗黙の了解だ。
 たとえオルヴィスであろうともそう簡単にオアシスへは踏み込めない。
「ええ、大丈夫です。もう……本当に」
 泣き続けるノーアをラトヴィアは優しく抱きしめて、子供の頃のように慰めてくれた。


 良かった、本当に良かった。
 これでもうアジムに危険はない。
 これでアジムは大切な人と幸せに暮らせる。


 握り締めた便箋がくしゃくしゃになると、一枚だけだと思った後ろから二枚目が姿を現した。
 それは一枚目よりも薄い紙に書かれていた。気づかれにくいようにだろう。
 そこに書かれた文字は、ガジェスのものではない。
 ノーアには分かった。
「――――……アジム」


 その端整な文字は彼のものに違いなかった。
 飾る言葉はそれほどない。
 書かれた文はガジェスのものよりも少ないかも知れない。






『君の幸せを月に祈り、太陽に願う』





 ――――ああ、こんな状況でも彼は。



 私の幸せを願ってくれているのか。





「本当に……お人よしなんだから」




 人のことは言えませんよ、というラトヴィアの声が、いつも以上に温かく聞こえた。
 




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