太陽の消えた国、君の額の赤い花
38
――ああ、どうして本当に君は。
そうやって俺を許してしまうんだ。
憎んで欲しかったのに。
最低な男だと罵って欲しかったのに。
――――ああ、どうして。
ゆっくりと顔を上げると同時に、抱きしめてくれていたノーアは離れていく。
「――ゲイル」
そう名前を呼ぶノーアの表情は痛々しかった。たぶん、彼女が見ている自分の顔はもっとひどいことになっているんだろうな、とゲイルは苦笑する。
いとおしさにノーアの細い腕を引き寄せ、華奢な身体をきつく抱きしめる。
彼女が抱きしめてくれた時とは比べ物にもならないくらいに、強く。
「……ノーア」
最初は驚いて硬くなっていたノーアの身体から、徐々に緊張がほぐれていくのが分かった。それだけの信頼があるということに嫌でも気づかされて、苦しくなる。
さらさらと流れる髪を手で梳く。肩に顔を預け、髪に顔を埋める。
体温も、心音も、香りも、感触もすべて忘れないように。
しっかりと身体に覚えこませる。
「ゲイル……?」
ノーアの優しい声に泣きたくすらなった。
「――…………――」
耳元で、そっと囁く。
「――――――え?」
驚いたような、困惑したような、その奥底に喜びを隠したような、そんな一片のノーアの言葉。
柔らかい頬に手を伸ばし、青く澄んだ瞳をじっと見つめた。
「ゲイル? 今――」
なんて言ったの。
聞こえていたはずの言葉を聞き返そうとするノーアの唇を、ゲイルは塞いだ。
ノーアの瞳が驚きで見開かれる。
触れたのは、ほんの一瞬だった。触れ合うだけの優しい口づけ。
「ゲ、ゲイル――」
顔を真っ赤にしてさらに質問を重ねようとするノーアの口を、手で制した。
瞳だけで疑問を投げかけてくるノーアの顔を見つめることが出来ず、俯いたままゲイルはぽつりと呟く。
「たぶん、出会わなければ良かった」
彼女が聖女なんて存在ではなくて、ただの庶民だったら――貴族の娘でも、なんでもいい。あの夜、出会わなければ。
「どこかで、お互いに道を間違えたのかもしれない。出会う運命じゃなかった。ノーアは王子と共に逃げていたかもしれないし、俺は聖女なんてものに関心も持たずに放置していたかもしれない。あるいは、処刑していたかも」
ノーアは何も言わずに、ただゲイルを見つめた。
キスの余韻すらなくなってしまいそうな、悲しい言葉をただ全て受け止める。
「ノーアの言うとおりだ、王とは可哀想な生き物だよ。何よりも国を優先しなければならない。このままではイシュヴィリアナの残党はオアシスに集まり、王子を旗印に再び戦争を起こすだろう――王子にその気が無くとも。俺は、オルヴィスを守らなければいけない」
個人の優先順位は違っていたとしてもだ。
ゲイルは辛そうに言葉を吐き出していた。
切なげに、悲しげに、苦しげに吐かれるその言葉に攻撃性はなかった。ただ、じわじわとノーアの心に毒を染み込ませていく。
伸ばされたゲイルの手が、ノーアの手を握り締める。
彼女を傷つけたくない、悲しませたくない。どんなこの世の不幸からも遠ざけて――誰よりも幸せになれるように……幸せにしたかった、この手で。
でもそれは無理だった。
毒はオルヴィス。ひいてはゲイル自身だった。
「俺達は、結局敵同士なんだな」
「――――そうね」
そこでやっとノーアが声を出した。
悲しいほどに優しく、切ないほどに静かな声だった。
朝日が昇る。
世界が赤く染め上げられていく。
そんな様子を、ただ一人でノーアは呆然と見つめる。
『――……愛してるよ、ノーア――』
耳元で囁かれた言葉は、あるいは幻聴だったのかもしれない。
いや、今までいた彼の存在そのものが、幻だったのかも――幻であってほしかった。
涙は不思議と、流れなかった。
「お帰りなさいませ。国王陛下」
オルヴィスに戻ってすぐに不機嫌そうなロハムに睨まれる。
いつもの光景に、今までの短い旅が夢だったのかもしれないなんて思ってしまう。それを打ち消すのは机の上に溜まった数日分の書類だった。
「そう怒るな。もうこんなことはない」
「いえまぁ仕事を残さないんだったらイシュヴィリアナに行くくらい許してもいいんですけどね。聖女様のところでしょう?」
ああ、と短く答える。
「だが、もう行かない」
その端的な言葉に、ロハムは一度口を開きかけ――結局何も言わなかった。
もう、会えない。
会わせる顔が無い。
彼女の唯一残された家族を今から殺そうとしているのだ。
そうして彼女は今以上に危うい立場になるだろう。
彼女の幸せの為には――自分は邪魔な存在だ。
「……ご命令は? 国王陛下」
タイミングを見計らったロハムの問い。この男のこういう時間の読み方は嫌いじゃない。
「――――兵を集めろ。オアシスへ進軍する」
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