太陽の消えた国、君の額の赤い花
45
「これが――イシュヴィリアナの聖女の力なの?」
クシャナは窓から重苦しい雨雲を見上げて、一人呟く。
雨が降り出して、もう四日目になる。
最初は恵みの雨と喜んでいたオアシスの民も、これほど続くと異常さを感じざる得ない。砂漠の中でこれほど大粒の雨が一時も止むことなく降り続けるなど、異常現象以外のなにものでもない。
オアシスは神に愛される土地――そんな風に呼ばれても、超常の力を感じたことなど一度もない。ただ水不足に喘ぐ世界の中で、他より豊かな水源があるだけ。
「……ノーアの力は、特に強いものらしいからな」
後ろからそう声をかけられて、クシャナは振り返る。
声の主は考えるまでもなく、アジムだった。
「この雨は、あの子がやってることだと?」
「雨だけじゃない。おそらくオルヴィスが撤退する原因になった砂嵐もだ。どちらもノーアが意識してやっているんじゃなく、無意識に起きている。ノーアの感情に引きずられて」
信じられない、とクシャナが呟く。
当然だろう――ノーアを知るアジムでさえ、信じられずにいるのに。
「……でもそれほど、オルヴィス王のことを愛してるってことよね?」
ノーアの流す涙はすべてオルヴィス王を思ってのもの。
「そういうことだろうな。悪い人ではなかったし、ノーアも丁重に扱われていたみたいだ。一応婚約もしてるし」
「自分の国を滅ぼした張本人なのに」
クシャナのセリフは、疑問を含んでいた。そしてその響きには自分なら恋愛感情なんて芽生えないとでも言っているようだ。
「二人に何があったのかは俺達には分からないことだろ。たぶんノーアは俺とオルヴィス王との間で悩んだだろうしな」
「反対しないの? 一応は敵でしょう?」
アジムは苦笑して、しないよ、と答えた。
「ここまできたら誰にも止められないだろう。オルヴィス王が生きているのかも今は分からないし――――今はもう、敵じゃない」
俺はもう王子じゃないから。
その言葉はどこか切なさを含んでいた。王家の人間にも関わらず国と民を捨てたことを、アジムはいつまでも背負っていかなければいけない。
ノーアを月の塔に帰そうにも雨で砂漠はいつも以上に渡りにくく、手紙で知らせようにもオルヴィスの監視がついているかもしれないと思うと行動できない。
砂漠に突然現れ、そして姿を消したイシュヴィリアナの聖女を、オルヴィスが探していないわけがない。もとよりノーアを殺そうと起きた事件だ。ゲイルが生きているにせよ、死んでいるにせよ――ノーアを今のうちに始末しようと考える者の方が多い。
ほとぼりが冷めるまではノーアをオアシスに匿うしかない。
「……ノーア」
呼びかけると、ノーアはちらりとアジムを見た。
その目は赤くなって、目の周りは泣きすぎたせいで腫れている。それなのにまだ足りないと涙は流れ続けていた。
「オルヴィス王が死んだとまだ決まったわけじゃない」
だからもう泣くな、と言いたかった。
それは無理な話だと分かっていても、これ以上にこの少女が悲しむ姿は見たくなかった。
こんなことなら、国を出る時に無理やりでも連れ出せば良かった。
そうすればノーアはゲイルと出会うことなく、もう少し長い時間をかえてオアシスまで辿り着き――穏やかに暮らせただろうに。
「泣くな……あんまり泣くとブスになるぞ」
幼い頃そう言ってノーアを泣き止ませた。
手を伸ばし頬を濡らす雫を拭ってやるが、またすぐに頬は新しい涙で濡れていく。
「――――――出会わなければ良かった」
ぽつりと、ノーアが久しぶりに声を出した。泣き声を堪え続けたせいか、少しその声は枯れている。
それが誰のことなのか、分からないほどアジムは愚かではない。
泣くだけ泣いたが、ノーアはまだ本当の意味で泣いていない。
「……そうかもな」
アジムは寝台に腰かけ、ノーアの髪を優しく撫でる。
ノーアはみっともなく、泣いて泣いて、ずっと溜め込んでいた心の底の悲鳴をあげなければいけない。ただじっと泣き続けても心は晴れない。
「私が、あの人と会わなければ、私が、こんなところまで来なければ、あんなっ……あんな怪我させなかったのに。だってあんなに血がいっぱいっ……でも来なくちゃ、ゲイルもアジムも失うと思ったから、ゲイルだって、こんなこと望んでなかったから、だからっ……」
子供のようにしゃくりあげ、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
アジムはただじっと、ノーアの髪を撫でていた。下手な相槌なんて必要ない。
「大切なものを、ぜんぶ、守りたかっただけなのにっ……」
悲鳴のような泣き声に、アジムは胸が締め付けられる。
月の塔で、限られた人とだけ交流を持って、大事に大事に育てられた少女。
この一年に満たない期間で――ノーアはどれだけ傷つき、涙を流し、身を引き裂くような思いをしてきたんだろう。
外の雨は一向にやむ気配を見せず、大粒の雫が地表を打ち続けた。
見ているこちらが苦しくなるような顔で、アジムが戻ってきた。
どれだけ時が無慈悲に過ぎ去っても、ノーアの心を癒すことが出来ないように、その彼女の傍らで慰めるアジムの心まで悲しみが蝕んでいるようだ。
それを妬む気持ちも少なからずあった。
どうして彼女を自分よりも優先するのかと。
その気持ちも、今となっては薄れてしまった。一つの可能性を思い出したのだ。
もし、ノーアがオルヴィスを止めていなかったら――。
十中八九、クシャナはアジムを失っていた。
オルヴィス軍がやって来た頃、アジムはオアシスの民に見えるように変装していた。しかしそれも長くは続けられなかっただろう。一歩間違えばオアシスは戦場になっていたのだから。
オルヴィス王の生死は分からない――けれど、クシャナの恋人は守られ、ノーアの恋人は守られなかった。
それが分かった今、どうして彼女を恨むのか、妬むことが出来るのか。
「……私も、少し話してきてみる」
ノーアの部屋から戻ってきたアジムとは入れ違いになる形でクシャナが部屋を出る。
「え、おい!?」
驚いたアジムが振り返ってクシャナを呼び止めるが、クシャナは止まらずに歩き続けた。
石と木で作られた、広いオアシスの宮。長く続く廊下を急ぎ足で歩く。渡り廊下が多いので油断するとこの天気では濡れてしまう。
客人用の西の離宮――そこにノーアは匿われている。オアシスは国ではないが、オアシスを束ねる君主の家ともなると一国の城並みの豪華さだ。
入り口から覗くと、ノーアはやはり頬を涙で濡らしたままだ。
彼女に感謝している。
彼女が早く元気になればいいと願う。
だけど、
アジムのやり方ではいつまでたっても彼女の涙は止まらない。
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