太陽の消えた国、君の額の赤い花
7
何度、自分に言い聞かせればいいのだろう。
彼を信じてはいけない。
彼に心を許してはいけない。
彼に頼ってはいけない。
やはりあの時、この命を絶っていれば良かった。
――もしもあの時、彼の胸に短剣を突き刺していれば、こうも胸が苦しくなることもなかった。
私が願うのはアジムの幸せだけ。
この世に残されたたった一人の家族の無事だけ。
私のことなんてどうでもいい。
そう、どうでも。
「――ノーア様、ご気分でも悪いのですか?」
セリが心配そうにノーアの顔を覗いてくる。
「風邪でもお召しになったんでしょうか。今日は少し寒かったですもの」
「……大丈夫よ、心配しないで」
無意識に笑顔を作って、ノーアが答える。聖女として常に人に見られる立場だったから、平気な顔をするのに慣れていた。
「陛下と、何かあったんですか?」
躊躇うようにセリに問いかけられる。この女官はなんでもお見通しなんじゃないかと思うほど的確に話しかけてくる時がある。
ノーアは苦笑した。
なんと言えばいいのだろう。
后になれと、そう言われた。無理だと、理解できないと答えて――それから、何と言っただろうか。
『私、あなたを信じられない』
そう言った時に、彼が悲しい顔をしたような気がしたのは錯覚だったのだろうか。
自分に言い聞かせるための言葉だった。喉に張り付いて離れないまま、声にすることが出来ずにいたそれを、ようやく口にして――口にした結果、私は生まれて初めて人を傷つけてしまったのだろうか。
「何もないわ。何かあるほど、長く話なんてしないもの」
イシュヴィリアナが消え、かつてアジムや国王が暮らしていた城にオルヴィスの者達が居座るようになって、もう一ヶ月以上になる。
ゲイルの多忙そうな様子からして、仕事は多く残っているようだ。かつてあった国が消え去り、新しい国に飲み込まれるための期間として一ヶ月はそれほど長い期間ではない。敵同士が歩み寄るにも、充分な期間とはいえないだろう。
「――私から見ると、陛下はノーア様を大事になさっているように見えます」
「可笑しな話ね。たかが一ヶ月と少しのことでしょう? オルヴィス王は私を手駒としか考えていないわ」
そう言いながらもノーアもセリの言うゲイルの優しさをどことなく感じていた。
ゲイルが少し距離を置きながらも、自分を見守っていてくれるような視線に。そうやって見守られることに慣れているから。
「手駒ならば、ここまでしません。陛下は良き王でもありますから。利用するおつもりなら、とっくに……」
セリはその後は口籠もるだけで、はっきりと言わない。
「とうの昔に、后にされているわね」
躊躇いなくノーアがそう言うと、セリが頬を赤く染める。
ノーアには男女に関する知識がないので、セリが顔を真っ赤にしている意味が分からない。アジムとの結婚はまだ先の話だったから、そんな知識を必要としていなかったのだ。
「周囲が許さないだけじゃないかしら。私は敵国の者なのだし」
「で、でも――町ではけっこう盛り上がってますよ?」
セリの言葉に、町で? とノーアは首を傾げた。
城下ではオルヴィス王がイシュヴィリアナの聖女を后に迎えると、早くも噂されていた。
戦争が終わり、王家の人間を処刑していながらも聖女を生かし続けている理由を、そういった方面に結びつけるのは無理もないことだ。何より国王が忙しい政務を抜け出してまで聖女に会いに行っているのは事実で、それが妙に噂に信憑性をもたらした。
元は敵同士でありながら恋に落ちた二人と、民は楽しんでいるようだ。
「――どこからそんなものが……愛し合ってなんてないし、オルヴィス王だってそういう意味でここに来ているわけじゃないでしょう」
はぁ、とノーアはため息をつく。呆れてこれ以上は何も言えない。
すっと立ち上がり、薄い夜着の上に上着を羽織る。
「ノーア様? どちらに……」
「少し散歩に行くわ。夜風に当たりたいの。庭に出るだけだもの、かまわないでしょう?」
セリはお気をつけて、と言うだけで後をついてきたりはしない。
ノーアが逃げるとは思っていないし、門と入り口には兵もいる。不審者がこの月の塔に入ってくることはありえない。
だから、油断していた。
月は変わらず、夜空に浮かんで輝きを放っている。
少し肌寒く感じる風を頬に受けながら、ノーアは淡い光を地上に落とす月を見上げた。
月は自分と同じだ。
激しく輝くことなく、太陽の光を受けてそっと光る。いつだって主役にはならない。太陽の傍らで見えなくなっていればいい。
いつだったか――アジムが、ノーアの髪は月のようだと言った。
同じ銀髪なのに、と首を傾げるノーアを見てアジムはただ微笑んでいた。銀の髪も、青い瞳も同じ――イシュヴィリアナではありふれた色彩だ。
その時ノーアはアジムのことを太陽のようだとは思えなかった。遠くない未来に、彼の傍らで彼を支える存在にならなければならないというのに。民は王を、アジムを、太陽だと褒め称えていたのに。
むしろ太陽のようなのは――。
あの燃えるような、夕日のように温かな赤い髪。金色にも見える榛(はしばみ)色の瞳。
「オルヴィス王」
呟いてどこか違う、と感じた。
そして当たり前だと思う。それは彼の地位であって、あの赤い髪の青年の名前ではない。自分が聖女と呼ばれるのと同じ。
「――――……ゲイル」
彼の名前。
今まで一度も口にしたことのない響き。
心のどこかにすとん、と何かが落ちた。太陽のようなのは、あの青年だ。ゲイルという名前の。
ただ色彩からそういう印象を受けているのではない。言葉で説明はできないけれど――太陽のように温かく、そして優しい。
「それが、オルヴィス王の名前ですか」
苦しみや憎しみを交えたような暗い声が聞こえた。
ノーアは声が聞こえた方に振り返る。
誰もいないはずだった。女官はもう皆休んでいる。兵がいるのは門と入り口だけ。
暗闇から人が浮かび上がる。
その声は女性のもので、ノーアにも聞いたことがあった。
「……ニル?」
長い間、この月の塔で共に暮らした修道女。イシュヴィリアナが滅んだ夜に、この塔から逃げたはずだ。
「お久しぶりです。ノーア様」
にっこりと優しい微笑みを浮かべる彼女は、少し痩せたようだ。
「ニル、どうしてここに……皆は無事に逃げたのよね?」
「ええ、ノーア様が持たせてくれた書状もあって、新しい修道院に入れました。ありがとうございます」
良かった、とノーアは安堵する。
ゲイルに聞くことも出来ず、確かめようがなかったので、ずっと気がかりだったのだ。
「噂を聞いて、じっとしていられずにこうして会いに来ました。ノーア様。オルヴィス王の后になるというのは本当ですか」
「――――それは」
ただの噂だと、すぐに言えなかった。
后になれと言われたのは事実だし、ゲイルが強行すればそれはすぐにでも現実になってしまうだろう。
「……本当、なんですね」
「ニル、違うわ。その――」
慌ててノーアは説明しようとした。
どうしてだろう。焦る必要などない。やましいことなど何一つないのに。
――――怖い?
ニルが? どうして?
ずっと一緒に、この塔で暮らしてきたのだ。仲も良かった。姉のように感じていることもあった。
なのに、ノーアは目の前に立つ彼女を怖いと思った。
「いけません。ノーア様。あなたは聖女なのです。あなたの相手はアジム様だけです。あのような愚かな王になど心を許しては――」
「許してなんかない! 信じてなんかない!」
ニルがノーアの耳元で囁く。
「――本当ですか? ならば何故、先ほどオルヴィス王の名を呟いていたのです? 何故あんな顔で――」
分からない。そんなことノーアには分からない。
ただ、何故か思ったのだ。太陽のようだと。あの温かい赤が。
「あのような男に穢されてはいけません。大丈夫ですよ、ノーア様。私がアジム様のもとへ連れて行って差し上げますから」
そう言って微笑むニルの顔は狂気じみていた。
優しい面影など微塵もない。
「――ニ、ル……?」
足が凍り付いてしまったかのように動かない。声も掠れて、そう遠くない場所にいる兵に助けを求めることもできなかった。
うっすらと微笑むニルの手には、短剣が握られている。
「楽園へ行きましょう、ノーア様。アジム様が待っていらっしゃいます。私もすぐに後を追いますからね」
違うの。ニル。
天の楽園にアジムはいないの。彼は今頃、地上の楽園に――神に愛されるオアシスに――……。
そう言おうとした時には、ノーアの腹部に短剣が突き刺さっていた。ノーアの夜着がじわじわと紅(あか)く血色に染まっていく。
あまり痛みはなかった。
ああ――やはり死ぬ時には痛みを感じないものなのね。
これで良かったのかもしれない。
ノーアだけが知る、アジムの生存もこれで闇に葬られる。
彼を信じてはいけないと言い聞かせ続けて苦しむこともない。
「――――…………」
太陽の名前を呟いた。
それが、声になっていたかは分からない。
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