魔法伯爵の娘
未来へ繋ぐ(6)
和やかな雰囲気のあとに、沈黙がおりる。
互いにどこか気まずくて肝心なことから目を逸らしていたことはわかっていた。
このタイミングで、この男がやってきたことの意味をミシェルはわからないほど愚かではない。恋にまっすぐに愚かしくなれるほど子どもではなかった。
「……今日来たのは、婚約についての話かしら?」
大人しくタシアンが口を開くのを待っていられるほどの余裕はなかった。トドメを刺すのなら早い方がいい、とミシェルは笑みを浮かべて問いかける。
その作り笑顔に気づいて、タシアンはまだミシェルはイアランと婚約するものだと思っているのだと思い出した。ミシェルが他の人間から知らされるより早く、自分でけじめをつけるために会いに来たのだ。
婚約者です、なんて顔で会いに来れるはずがない。それだけのことをやった自覚がある。
「その婚約の相手が……俺になった」
沈黙。
驚いてカップを落とすくらいのことがあってもいいのに、部屋の中は無音だった。
ミシェルはティーカップを持ち上げたまま、瞬きもせずに硬直している。彼女のことだからとっくの昔にイアランに嫁ぐことを覚悟して腹も括っていたのだろう、とタシアンは思った。昔から潔い性格をしていたから。
「ああ……ああ、なるほど……なるほどね、だからあなたは私に会いに来たのね?」
「察しが良くて助かる」
「良くなんかないわよ。ついさっきまで私のことをきっぱりすっぱり振るために来たのかと思っていたわ」
弟の、そして主君の嫁になる女が、自分に懸想している。そんな状況をタシアンは許さないだろう。
「さすがにそんなことは……」
「しないなんて言い切れないでしょう。あなた、イアラン陛下が大好きだもの」
大好きという言い方はいかがなものか、と思いながらタシアンは反論を飲み込む。イアランのためならばどんなことだってするだろう、と問われたら否とは言えない。
言えないから、タシアンは結婚などするつもりはなかったのだ。
「……そうだな」
タシアンは認めた。認めるしかなかった。
いつだって頭の中で繰り返してきた。天秤はいつもタシアンにとって正しく傾く。
「……俺は陛下とおまえが同時に命の危機に陥っていたとして、俺は迷わず陛下を選ぶ。そういう、どうしようもない男なんだよ」
それがたとえ、アイザとイアランであったとしても同じだ。アイザを見捨てることでイアランに罵られようと、タシアンはイアランを選ぶ。そうして生きていくと、もうとうの昔に決めてしまったのだ。
そんな人間が、誰かを愛して誰かに愛されるなんて、許されるはずがない。
両手を絡ませてきつく握る。
タシアンは自分の手を見下ろして続けた。
「……だから、こんな男はごめんだというなら、婚約の件は断ってくれていい。双方の国にとっても不利益にならないように手は尽くす」
タシアンが駄目だったからイアランに、とはならないだろう。イアランはそんな妥協をする人ではない。
ふぅ、とミシェルがため息を吐き出す。
「馬鹿なひと」
呆れたような響きの声に、タシアンは顔を上げる。碧色の瞳は、やわらかな色をしていた。
「あなた、いつから私のことを守られたいだけの女だと思っていたの?」
守られたいだけの。
首を傾げタシアンを見つめるミシェルは、腕を組み胸を張った。
「心配しなくてもいいわよ。そんな状況に陥ったって、あなたがのろのろと陛下を助けているうちに私は自力でどうにかするわ。なんなら手伝ってあげるわよ」
自信満々のミシェルに、タシアンはぽかんと口を開ける。そういう話だっただろうか。
一番に大切にできないと、そんなろくでもない男だと。……だからできることならミシェルから断ってくれればいいのにと、心のどこかで願っていた末の話だったはずなのに。
「いや……さすがにおまえでも自力でどうにかできるとは限らないだろ」
「できないとも言えないじゃない。私を誰だと思っているの? これでもマギヴィル学園の兵士科を男として卒業したのよ?」
きっぱりと言い切られるとタシアンも反論しにくい。そもそもたとえばの話のはずだ。天秤にかけたときの重さの違いをタシアンは話していたはずだ。
イアランとミシェルが同時に命の危機に陥るなんて、それこそ現実では早々起きることではない。
けれどタシアンは『守る側』の人間だから、どんなに可能性が低くとも優先順位ははっきりさせなければならない。
「……あなたに守ってほしいなんて思ったことはない。私はね、タシアン」
白い手がタシアンの手の上に重ねられる。
あまりにも小さく頼りない手だ。マギヴィルにいたころよりずっと、華奢になったようにも見える。
それなのに、簡単には払い除けることなどできないと感じるほどの何かがあった。
「あなたと一緒に、生きたいの」
聞き逃すことなど許さないというように、一音一音はっきりと魂を込めて告げられる。
タシアンは縛りつけてくるような視線が逃れるように目を閉じた。しかしすると、重ねられた手に爪を立てられる。
はぁ、とため息を吐き出す。
諦めもつくと、なんだか笑いたくなってきた。
「……俺の負けだ」
「そうよ、あなたの負けよ」
そう言って満足気に微笑む女に、タシアンは一生勝てないような気がした。
*
クリスたちと隣室に移動してお茶を飲むとようやく落ち着いた。マギヴィルに到着してすぐにクリスを探しここまでやってきたので休む暇がなかったのだ。
「そういえばおまえ、大丈夫か」
いつもの声音でクリスが問いかけてくる。
一瞬だけなんのことかと思ったが、アイザもすぐにわかった。クリスはアイザがマギヴィルに戻るのが遅れた理由を知っているし、知っているからアイザを気遣って聞いているのだろう。
「……大丈夫だよ、もう。お別れはきちんと済ませてきたし」
「ならいい」
突き放したようにも感じやすいクリスの素の口調は、アイザには馴染みのものだ。彼がとても気を遣う人物だということはルームメイトなんだから知っている。
その後は遅れていた分の授業の内容を聞いたりあとでノートを借りる約束をしたり、寮では何があったか……なんてことを話し始めると時間はすぐに流れていく。
「……もしかして、おまえは先に帰ったほうがいいかもな」
そして隣室に移動してからしばらく経った頃、クッキーをつまみながらクリスがぽつりと呟いた。
「なんで?」
まだ外は明るい。急いで寮に帰らなければならないような時間ではないはずなのだが。
「そりゃあねぇー。思いが通じ合った男女がやることなんてひとつしかな……イテッ」
「おまえはもう少し慎みを持て」
「慎んで未来の旦那様が捕まるなら慎みますけどぉー!」
にやにやと笑うニーリーをクリスが小突く。話がよく聞こえなかったアイザは首を傾げるが、クリスはニーリーが言った内容を教えてくれる気はなさそうだ。
(ガルの授業はあと二時間くらいで終わるかな……)
窓の外を見てアイザはそんなことを思う。武術科は外での授業が多いせいか、終わる時間は魔法科よりも少し早めだ。だからガルはいつもアイザの授業が終わるのをどこかで待っている。
『……おれのうんめい』
独り言のように囁かれる声を思い出して、アイザは火がついたように赤くなる。身体を包み込むぬくもりすら思い出せそうな気がして、アイザはよく分からない羞恥心に襲われた。
「……どうしたいきなり赤くなって」
「な、なんでも、ない」
訝しげなクリスの声にアイザは俯いて顔を隠す。なんで思い出したんだ、と自分を責めながら呼吸を整えようと心がける。
「おやおやぁ?? ニーリーさんの好みの恋バナの気配がするね?」
しかしこんな面白そうなネタをニーリーが見逃すはずもなく、アイザの顔を覗き込んでにやにやと笑う。
「しない! 違う!」
アイザは子どもみたいに反論する。
恋とかそういうのじゃない、とアイザは否定する。あれはたぶん違う。そういうものじゃない。
恋などではない。そうであってほしいと感情的に否定する一方で、冷静な自分はそれならあれはなんなんだと分析しようとする。
ガルがアイザに向けてくる感情は、好意であることは確かだ。しかしそれは、恋などという独りよがりで甘いものではない。
それなら――
「……仲良いなおまえら」
じゃれているアイザとニーリーを見て、呆れたような声が部屋に入ってくる。
部屋の入り口にはタシアンと、その隣にミシェルが立っていた。
「タシアン」
互いに寄り添うように並ぶ二人に、アイザはほっと胸を撫で下ろした。どうやら円満に話は終わったらしい。
「……思ったより短かったですね。頬に張り手でも食らわせているかと思ったんですけど」
きょとん、と本気で驚いているらしいクリスがそう告げた。ミシェルは弟の発言ににっこりと答える。
「それはやめておいたわ。だって一応、明日か明後日にも正式に挨拶にくるんでしょ? その時に見るも無惨な顔になっていたら困るものね?」
「……そんなに長く腫れるほど本気で殴る気かおまえは」
「殴られるだけの理由はあると思うけど?」
にっこりとミシェルにそう言われると、タシアンは渋い顔で黙り込む。反論できないらしい。
「尻に敷くだろうなあれは」
「うん……」
こっそりと呟かれたクリスの言葉にアイザもこっそりと同意した。
「あまり長居するわけにもいかないだろ。戻るぞアイザ」
「うん」
ミシェルには王女としての予定も組まれているはずだ。こちらは急遽やってきたのだからあまり時間を使わせる訳にもいかない。
「タシアン」
呼び止めるミシェルの声に、タシアンが振り返る。
「もう逃げないでね?」
「逃がす気もないだろ」
物騒にも感じる会話なのに、二人は笑っていた。それはまるで、人によっては睦言のようなやり取りだと感じるほど、自然でやわらかな、二人だけの会話だ。
(……ああ、きっと)
そんなやり取りを見つめて、アイザは微笑む。青い瞳は眩しいものを見るかのように細められ、その唇からは息が零れた。
(この二人なら、不幸にはならない)
それはまるで、胸に染み込むようなやさしい確信だった。
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