可憐な王子の受難の日々

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24:花はあんたにやるからな



 少しのところで、間に合わなかった。
 アドルバードは歯がゆく思いながら、バーグラス卿を睨みつける。短剣は、ほんの少し力を入れればすぐにでもエネロアの首筋を切り裂いてしまうだろう。誰もが焦るなか、当本人のエネロアだけは冷静だった。


「……そこまで堕ちたか、バーグラス」


 低く、唸るようなカルヴァの声。バーグラス卿を睨みつける目は鋭く、それを見たアドルバードの背筋は凍りついた。
 恋愛に関しては疎い方だが――ここまではっきりしていれば、アドルバードにでも容易に分かる。カルヴァにとってエネロアは特別なのだ。自分にとってのレイがそうであるように。
「おまえが欲しいのはこの命か。ならばくれてやる。その汚い手をどけろ」
 何を言い出すのか――誰もが声を失った。ただ一人不敵に微笑むバーグラス卿以外は。
「その場で自ら死んでください、陛下。剣ならばそこいらに転がっているでしょう。そうすれば、この婦人も解放しますよ」
「――彼女の安全を確認させないつもりか」
 苦笑しながらも、カルヴァは一番近くに転がっていた剣を拾い上げた。まさか本気かと、アドルバードは自分の目を疑った。
「どうぞ、首でも、胸でも、お好きなところを刺して死んでください。あなたはアルシザスに必要ない」
 にっこりと微笑みながらそう言うバーグラス卿は、もはや人としての理性は欠片も残っていないようだ。その微笑を見るたびに、悪寒がする。
 カルヴァは黙って、剣についた血を服の袖で拭う。
「おい、まさか本気かおまえっ!?」
 さすがに見過ごすわけにはいかないとアドルバードが叫ぶ。
 カルヴァはらしくもない弱々しい微笑みを浮かべて、ただアドルバードを見つめた。
 気持ちは分かる。痛いほどに。もし自分が、レイを盾にとられたら――そんなことは万が一にもありえない気がする――命は惜しくない。彼女を守りたい、それは自分が常に思うことだから。
 しかし、それは国王として正しいのか――。


「……何を、するおつもりですか。陛下」


 ぴたりと、カルヴァの動きが止まる。
 首筋に短剣を突きつけられても、エネロアは怯える素振りも見せなかった。彼女はただカルヴァを睨みつけて、怒っている。
「――何を、と言われてもね。エネロア。君を救おうとしているんじゃないか」
「あなたの脳は屑ですか。それとも砂ですか。ああ――腐って中身が全部なくなりましたか。嘆かわしいことです」
 思いも寄らない毒舌っぷりに、アドルバードだけではなく、妹も、二人の騎士も絶句した。アルシザスの者にしてみれば普通なのか、衛兵は皆ただカルヴァの自殺行為が止められたことに安堵している。
「……エネロア。そこは嘘でも『私のために死ぬなんて馬鹿な真似はよして』と可愛らしく言うところではないのかね」
「とても馬鹿な行為ではありますね。一国の王がたかが一人の女のために自害ですか。馬鹿馬鹿しくて笑えません。美談にもなりませんよ」
「美談ではないか!!」
 どこがだ、と内心でアドルバードはつっこむ。おまえの感覚は可笑しい。
 この状況に似合わない二人の会話に、バーグラス卿も口を挟む余地がない。
「黙れ! 早くしろ! 早く死ね!」
 丁寧な口調も吹き飛び、バーグラス卿が叫びだした。
 短剣の先がかすかにエネロアの首筋を傷つけ、赤い鮮血が白い肌を伝う。
 傍目から見ても分かるほど、カルヴァの顔が蒼白になる。気づかないバーグラス卿は馬鹿なのか狂っているのか。
「――――……陛下」
 エネロアが呟く。
 それ以上は何も言わない。それでも何かはカルヴァに伝わっているようだった。





「……アドル様、動けますか」
 真剣なレイの声に、アドルバードは顔を上げた。
 バーグラス卿はもはや策も何もなく、眼中にあるのはカルヴァだけだった。他の人間が口を開いても気づく気配はない。バーグラス卿に一番近いのはアドルバードとレイだ。その次にカルヴァ。リノルアースとルイは遠いので戦力に数えない。
「狙えますね?」
 すっと渡された短剣を受け取る。広がるドレスの中に武器を隠す場所などいくらでもあるということか。
 一度頷き、短剣を握る。
 長剣を扱うより、こちらの方がアドルバードには合っていた。体が小さく筋力もそれほどないからだ。


「国王陛下。花はあんたにやるからな」


 アドルバードはそう声高く宣言した瞬間に――バーグラス卿の手の甲に短剣が突き刺さる。
「うがああぁぁっ!」
 続けてアドルバードが投げた短剣はバーグラス卿の足、腕に命中し、拘束が緩んだ隙にエネロアは駆け出す。
 カルヴァは迷うことなく、自分を貫く予定だった長剣をバーグラス卿に突きつけた。その顔に、表情はない。冷たいハウゼンランドの雪さえも凍りつくような、静かな殺意だけがそこにある。


「実に残念だ。残念だが――もはや許す気にもなれん。死をもって償え、バーグラス」


 ルイが咄嗟にリノルアースを抱きかかえるように目を覆った。人が斬られ、命を落とす瞬間を見せて良いはずがない。
 リノルアースも、人が斬られる瞬間はいくらでも見た。しかしそれは命を落とすほどのものではなかった。先ほどの乱闘でさえ、レイもルイも――アドルバードも、致命傷を与えない程度に戦っていたのだ。
「貴様に国王たる器はない。我々貴族を蔑ろにする王に明日はない。貴様はいずれアルシザスを滅ぼすのだ――」
 バーグラス卿は叫び、それはやがて絶叫に変わる。ルイの腕の中でリノルアースがびく、と震えた。耳も塞いでいるものの――聞こえてしまうのだろう。






「…………陛下」
 エネロアがカルヴァの背中に声をかける。
 ゆっくりと振り返ったカルヴァは、らしくない弱々しい微笑みを浮かべていた。エネロアの白い手がそっとカルヴァの頬に伸ばされる。
 そして――。


 ぱし、と乾いた音が響いた。
 叩かれたのだ。


「なんですかその情けない顔は! 一国の王がそんな面いつまでもぶら下げてないでしっかりしなさい!!」


 一瞬呆然としていたカルヴァも、く、と笑い出した。
 なんて遠まわしな励ましだろう。カルヴァがそっとエネロアの首に触れ、流れる血を拭った。それほど大きな傷ではない。痕すら残らないだろう。
「傷つけてしまったな。傷一つつけたくはなかったのだが」
「……名誉の負傷です。何をかっこつけているんですか」
 エネロアの切り替えしに、カルヴァはまた笑う。
 殺伐とした雰囲気もエネロアの説教で消え去ってしまったようだ。
「私のせいで怪我するのは名誉かね?」
 馬鹿なことを、と呟きながらエネロアは踵を返し、会場の事後処理を始める。頬が少し赤いのは気のせいだろうかとカルヴァは微笑む。


「……あなたは、アルシザスの王ですから」
 エネロアの小さな呟きは、誰の耳にも届かない。
 




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