「嘘ではなかったんですね」
カーネリアの部屋から退室し、今度こそ自分の部屋へと戻る途中で嫌な男に捕まる。フランディールは仮面をつける暇もなく、顔を歪めた。
「まさかとは思うけど、今まで待っていらっしゃったの? 暇なんですね」
「待ち伏せたわけじゃないですよ?」
怪訝な顔をするフランディールを気に掛けることもなく、ジュードが笑う。見透かすような緑色の瞳に、居心地が悪くなる。
「……何か、私に話でも?」
逃げても追いかけてくるのなら、嫌なことはさっさと済ませてしまうほうがいい。フランディールは腹をくくってジュードと向かい合った。
ジュードはにっこりと笑う。
「婚約者候補、随分とおもしろい話ですが」
びく、とフランディールの肩が震えた。
「いつまでそんな茶番を続けるんですか? もう、必要ないでしょう?」
あなたには、心に決めた人がいるんですから。
フランディールは真っ青になりながらジュードの腕を掴んだ。周囲に人がいなかったことを確認し、足早に普段あまり人の使っていない書庫の中に入り込んで、扉を閉める。心臓がばくばくと鳴っていた。
「……誰が聞いているのかもわからないような場所で、する話ではないと思いますけど」
「異性と簡単にふたりきりになるのもどうかと思いますよ?」
そうさせたくせに、とフランディールは睨みつける。だからこそフランディールは扉を背にしたまま動かない。何かあればすぐに逃げるつもりだ。
「まぁ、かまいませんけど。候補なんて面倒なことはやめて、早く婚約すればいいじゃないですか。好きなんでしょう?」
キリルが。名前を声に出さなかったのは、ジュードなりの優しさなのだろうか。
「部外者のあなたに言われる筋合いはないわ」
「彼の従弟なので。これでも」
部外者ではないと言外に告げる言葉に、フランディールは眉を寄せた。
「彼だってあなたを愛しているでしょう。何が問題だっていうんです?」
「……どんな確証があって、そんなこと言っているのかしら」
はぁ、とため息を吐く。この際、自分が顔に出てしまっているのは百歩譲ろう。しかしキリルの被っている仮面は、そう簡単に暴けるものではない。何しろ彼は、その仮面をもうずっと前から被っているのだ。きっと、自分がフランディールと結ばれないと気づいたときから。
「見ていればわかりますよ、どちらも」
呆れたように呟かれ、フランディールはかぁっと赤くなる。数日前に会ったばかりの人にさえわかるほど、わかりやすかっただろうか?
「……そんなに、わかりやすかったかしら?」
顔に出したつもりはないのに。
「これまでのあなた方を見ていた人間には、誤魔化されるかもしれませんが。少なくとも俺にはどう見たってそうとしか見えません」
「そんなに?」
きっぱりと断言するジュードに、フランディールは苦く笑みを零した。
「早く婚約してしまえばいいじゃないですか」
なぜそうしないのか、と言いたげな声でもあったが、ジュードはフランディールの答えを知っているようにも感じた。
フランディールの口から、何度絶望的な現実を話さなければならないんだろう。そのたびに胸は軋むように痛んで、その痛みが癒えることはない。
「……キリルと私では、無理だもの。バウアー家が王家からの寵愛を受けてきたのは事実。それなのに私が降嫁するともなれば、国内の貴族は黙っていない。だからキリルは、私と結婚することはない。妹であれ、なんであれ、愛していてくれているとしても」
フランディールは悲鳴を上げる胸を押さえつけながら、淡々と告げる。痛い。けれど痛いと叫ぶこともできない。
「だから、茶番を続けるんですか?」
ジュードは容赦ない。癒えぬ傷を的確に突いてくる。
フランディールは目を伏せ、小さく呟いた。
「許された時間だけ、恋に生きてもいいじゃない」
時間は限られている。あと一年ほどしかフランディールに自由はない。
「報われない、つらくなるだけの恋なのに?」
「それでも、捨てきれないんだもの」
「そのあとでどうするんです? 王族として、国のためになる婚姻を?」
「それが姫としての務めだと思っています」
駄々っ子のような答えや、模範解答しかできない。頭で考える猶予をジュードは与えてくれない。どうしてこんなに問い詰められるのか、フランディールにも分からなかった。
「それなら、提案がありますよ」
ジュードが微笑む。
その微笑みは、キリルのものと似ているように見えた。しょうがないな、おまえは。そう笑うキリルの面影が重なる。
それは、甘い誘惑のようだった。
「俺は、どうですか?」
フランディールは自分の耳を疑った。彼は、なんと言ったんだろうか?
「……え?」
随分と呆けた声が、自分の声だとも認識できなかった。問い詰められた間から頭はうまく働いてくれない。しかしジュードはお構いなしに説明を始めた。
「俺との婚姻はネイガス王家だけでなくアヴィランテ帝国とのつながりも生まれる。見た目だって彼に似ているでしょう? 悪くはないと思いますよ」
――彼は、何を言っているんだろう?
「でも」
「別に、恋をしろ、愛せなんて言いません。でもそうすれば、きっと誰にもわからない。あなたが彼に恋をしているなんて」
「……」
どき、と心臓が鳴った。
誰も、気づかない。フランディールが、キリルに恋をしているということを。誰も――つまりは、キリルも。
「恋したままでいればいい。俺は気にしません。国のための結婚はできます。俺は彼を愛したままでも受け入れますよ? いい物件で、あなたの恋まで認めている。どうです?」
誘惑にぐらりと眩暈がした。気を抜けばその手に縋り付いてしまいそうになる。
キリルには、気づかれてはいけない。いや、もしかしたら既に気づいているのかもしれないが、フランディールが想いを明らかにすればキリルを困らせるだけだ。
「どうしてあなたがそこまでするの?」
「さぁ、あなたに一目惚れしたから、ですかね」
ふわりと微笑みながらジュードが告げる。重みのないその言葉は、嘘か本当かも見分けがつかなくて彼は嘘のうまい人なのだろうな、とフランディールは思った。
「俺を愛してくれなくてもいい。それでも俺はあなたを手に入れる。長いときをかけて、少しでも俺をあなたの心に住まわせてくれれば、それでいいですよ」
一瞬の躊躇のあとに触れてきた手は、壊れ物に触れるように優しかった。